青年指揮官・村山実『3年間の死闘』(中編)

 球団が庇護(ひご)する体制はなかった。だが、村山は言った。「『投げねばならん』という気持ちは失ったらダメやと思う。監督の成績はその後や」

 熱血である。身体を張ってチームを引っ張るというのだ。それは間違いではないにしても、危険でもある。激情家がその辺りを見失うと落とし穴にはまる。

 「投手で兼任は出来るのか…」と南海・野村は村山の兼任に首をかしげていた。西鉄の稲尾も投手兼任を希望したが、球団が許さなかった。その点、阪神にどれほどの深慮があったのだろう。幸い1年目は成功したが、先行きには不安の色が濃くあった。

 翌71年の初夏、試合後に部屋を訪ねるとワキに体温計をはさんでいた。「微熱が下がらんのや」と言いながら、しかし、翌日には先発した。前年の心身の疲弊も相まって疲労による発熱だった。休養を助言する者もなく、一人で死闘を演じているようだった。

 ある日「登板を飛ばす気はないですか?」と村山に聞いた。取材半分だった。その気はなさそうだった。名古屋遠征時のチーム宿舎「美そ乃旅館」。その夜は「泊っていけ」と言われ、明け方まで話した。

 「お前、俺がいつまで兼任が出来ると思う?」。私に答えはなかった。「あと1、2年やろ。辛いのを我慢するのは」。いまこの人は辛いのだ−と思った。この年、村山は先発19、救援9、7勝5敗だった。江夏も「黒い霧事件」の風にのまれ、阪神は5位に落ちた。※(後編)に続く



【1970年代】村山実監督


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