衝撃の「田宮二郎猟銃自殺」とは何だったのか(中編)

衝撃の「田宮二郎猟銃自殺」とは何だったのか(中編)

 突然、田宮は途中で車を止めた。「僕はこれからちょっと用事で行くところがある。すぐ戻ってくるから待っててね」と言い残すと、私を車外に残し、車でどこかに行ってしまった。10〜20分して田宮は戻ってきた。「今は話せない。後で話すから」。誰と会って何をしていたのか、それも分からなかった。

 夜中の1時頃、当時、京王沿線の郊外にあった彼の自宅に戻った。私は酒を飲まないので、明け方まではいなかったが、いろいろ話をした。「なんで」と聞くと、「それはまだ言えないよ」。結局、真相は聞けないまま、永遠に“お蔵入り”となってしまった。

 翌年から田宮はテレビに活路を見出す。「クイズタイムショック」の司会でお茶の間の人気を博し、ドラマやCMでも活躍。五社協定の崩壊とともに映画界にも復帰した。

 だが、彼の人生は暗転する。78年12月28日、田宮は猟銃で心臓を撃ち抜いた。

 私は記者として現場となった元麻布高台の自宅に行った。暗い道を上っていった記憶がある。自身のプロデュースにより、ロンドンで撮影した日英合作の主演映画「イエロー・ドッグ」(77年公開)にかかわった松竹の宣伝マンが騒然とした現場を仕切っていた。もともと外交官志望で、英語もうまかった田宮。待望だった世界市場相手の初作品が結果的に遺作映画となった。そのあたりを踏まえた追悼記事を紙面のカタで書かせてもらった。

 深夜のドライブで見せた謎の言動と10年後の自殺。だいぶ時間がたっているので、因果関係を結び付けることはできない。自殺なんてよほどの決意がないとできないし、言えないことがたくさんあったのだろう。あの夜、私をドライブに連れ出した理由は「さびしかったから…」というようなことだったのかなと今にして思う。

 ひとつだけ、あの車中で田宮から「(記者に)ステーキごちそうになったことは忘れないよ」と言われたことを記憶している。本名の柴田吾郎でデビューした新人の頃、正月紙面の特集でインタビューして、新橋で食事をした時のことだった。※(後編)に続く



【1970年代】


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