「横山やすし物語1」聴取者参加番組から始まった天才少年漫才師の道

「横山やすし物語1」聴取者参加番組から始まった天才少年漫才師の道

 【横山やすし物語1】

 スピード感あふれる圧巻のしゃべくりで、客席を爆笑の渦に巻き込んだ。日本一の漫才師・横山やすし−。西川きよしとのコンビで昭和の漫才ブームをけん引した「やっさん」が亡くなったのは1996年の1月だった。破天荒な51年の人生を改めて掘り起こし、その素顔と足跡を交友の深かった放送作家・古川嘉一郎氏がたどる。

  ◆  ◆

 横山やすし−本名・木村雄二(きむら・ゆうじ)は昭和19(1944)年3月18日、高知県幡多郡沖の島弘瀬(現在は宿毛市沖の島)で生まれた。体重2キロ足らずの未熟児であった。

 大阪府堺市神石之町の父のもとに移されたのは、誕生から5カ月目の夏。

 生母の輝子は産後の経過が思わしくなく、ほどなく沖の島へ養生に帰り、2年後の昭和21(46)年の夏に堺市に戻った。しかし、その時すでに父・庄吉のもとには、雄二の世話を頼んだタキヨという女性が入り込んでおり、生母と養母の間で雄二の激しい争奪戦が始まる。

 結局、養母タキヨが押し通し、生母の輝子は昭和26(51)年に高知にいったん引き揚げた。木村雄二の満7歳の時である。

 このちょっと複雑だった幼少期の家庭環境が、のちの横山やすしの人間形成に少なからず影響を与えていたと言えそうだ。

     ◇   ◇

 中学2年生の暮れ近くであった。雄二が学校から帰ってくると、母親のタキヨが声を掛けた。

 「さっきなあ、雄ちゃんと同じ年の男の子がラジオに出て歌ってな、鐘を3つも鳴らしてたで。お前もラジオに出たらええのに…けどお前は歌が下手やからあかんわなあ」

 「ラジオ?ラジオみたいなもん誰でも出られるやないか。歌が下手でも出れるわい」

 雄二がムッとして言い返した。

 翌日、学校に行くなり親友の岡田好弘に声を掛けた。

 「なあ、2人でラジオに出えへんか?」

 「ラジオに?どうやって出るんや。俺、自信ないわ。嫌や」

 「そんなこと言わんと出ようや。2人で頑張ったら絶対にラジオに出れるて」

 真剣に迫る木村雄二の語気に押されて、岡田好弘が半分その気になった。

 「ほな今晩、ラジオで“漫才教室”ちゅう番組があるから聞いとけや。俺も聞いとくから。絶対やぞ」

 その翌日、出るならあの番組やと2人の意見が一致した。

 「そやけど、漫才は誰が考えるねん?」

 岡田はまだ不安げであった。

 「そんなもん俺が作るがな。まかしとけ」

 昭和32(57)年12月21日に木村雄二が出場申し込みのハガキを書いて出した。

 “漫才教室”とは、その年の7月から朝日放送がスタートさせていた聴取者参加番組のことである。

 漫才作家の秋田實が主宰し、司会を松鶴家光晴、浮世亭夢若のコンビが務めた。毎週3組の素人コンビが出演し、初等科、中等科、高等科、卒業試験という4段階を受験していくシステムで、卒業コンビは“研究発表”という名目でその後も出演できるという規則であった。

 ちなみに賞金は2千円から始まり、卒業試験の合格者には1万円が贈られた。全部で2万円ほどの賞金になり、当時の大学新卒の初任給7〜8千円を上回る高額であった。

 審査は秋田實とゲスト(特別講師)として出演していた中田ダイマル・ラケットや夢路いとし・喜味こいしらがあたっていた。

 木村雄二と岡田好弘は冬休みに入ってすぐ漫才のネタ探しだといって『紫頭巾』という映画を観に出かけた。漫才のネタ探しに映画鑑賞という発想は、中学生にすれば上出来ではなかったか。

 数日後に朝日放送から返事が来て、大みそかが予選の日だった。

 2人は『僕は易者』という漫才で予選を通過。明けて昭和33(58)年1月7日、見事に一発で初等科に合格し、録音収録。1月21日の夜7時からの放送に初めて2人の声が電波に乗った。

 その後、中等科、高等科までとんとん拍子で進み、5月の卒業試験で一度だけつまずいたが、次回の7月31日には合格して卒業。ちょうど堺の夜市の祭りの日であった。

     ◇   ◇

 ラジオ番組“漫才教室”における2人の活躍は、堺市立旭中学校でも近所でも大評判になった。

 この頃から木村雄二は、プロの漫才師になってやろうという腹を半分ぐらい決めていたようだ。

 3年生の夏休みが過ぎると進路を決めなくてはならない。

 木村雄二は両親に自分の意思を伝えた9月の初旬、担任の先生に「僕、漫才師になります」と、はっきりと告げた。もちろん岡田好弘にも承諾は取ってあった。

 それから4、5日経った放課後。「3年5組の木村雄二君、すぐ職員室まで来なさい」と校内スピーカーが知らせた。

 職員室に行くと、そばにいた先生が、すぐ校長室に行くよう指示した。

 ドアを開けて中に入ると「君か?漫才師になりたいという生徒は?」。校長が大きな声で聞いた。

 「はい、3年5組の木村雄二です」

 負けずに大きな声で答えた。

 校長がここから諄々と諭すように語り始めた。雄二の進路を決定づける重要な時間だった。=敬称略=

【連載にあたって】

 横山やすしが何を考え、どう生き抜いてきたのか、改めて見つめ直したい

 漫才師・横山やすしがあの世に旅立って、もう20年以上が過ぎた。

 彼の死後すぐに私は『横山やすし 夢のなごり』という本を一冊書き上げて出版した。

 生前にも彼を取材した本も書いたし、それなりの深い交友があった。

 やんちゃで、どこかハチャメチャな印象が色濃い男であったが、私が知っている実際の彼の素顔は違う。

 横山やすしの芸人としての戦いはもっとドラマチックであったし、世間から批判を浴び続けた幾多の言動にも、彼なりの筋が通っていたように思う。

 横山やすし・西川きよしのコンビで頂点を極めるまで、彼が何を考え、どう生き抜いてきたのかを、改めてじっくり見つめ直してみたいと思う。

 複雑だった幼少期の家庭環境から、もがき苦しみながらトップに上り詰めるまで、その裏側にどんなドラマがあったのか。

 その光と影にスポットを当てながら、稀有な男の人生を、今一度この連載で振り返りたい。(古川嘉一郎)

  ◇  ◇

 ▼古川嘉一郎(ふるかわ・かいちろう)1942年生まれ。大阪市出身。立命館大学文学部卒。コピーライターを経て放送作家に。藤本義一氏に執事し、テレビ・ラジオ番組の企画構成、演芸評論などで活躍。85年に秋田實賞を受賞した。

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