「“男系維持”は風前のともしびだった」

 長らく懸案であった「安定的な皇位継承」のあり方を巡る協議が、ようやく動き始めた。今後は、衆参両院議長のもと各党代表による議論が加速するとみられるが、その裏では、延々と待たされてきた当の皇室から、上皇后さまが“ご心中”を密かに発せられていたという。

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 小泉純一郎政権下の2004年末、将来的な皇族数の減少に備え、「皇室典範に関する有識者会議」が設置された。その後、

「翌秋には『女性・女系(母系)天皇を認める』『皇位継承順位は男女を問わず第1子を優先』という内容の報告書が作成されました。当時の皇室では若い世代の皇族方はいずれも女性で、“男系維持”は風前のともしびだった。反対の声もありながら皇統断絶だけは何としても避けねばならず、ぎりぎりの選択だったわけです」(宮内庁関係者)

 06年1月には小泉首相から有識者会議のメンバーらに「(同年)3月には皇室典範改正に関する法案を出す」との方針が示されたという。が、それも2月に突如、紀子妃のご懐妊が判明したことで雲散霧消してしまう。

安倍政権下で“敵視”された「女性宮家」構想

 続いて民主党政権下の11年秋、当時の羽毛田信吾・宮内庁長官が“喫緊の課題”として野田佳彦首相と直談判に及び、翌年10月には政府が『女性宮家創設を検討すべきだ』との論点整理を発表。これはそもそも、長らく皇室の先細りを危惧されてきた上皇(当時の天皇)ご夫妻のご意思に他ならなかった。実際に、

「上皇さまの強いお気持ちのもと、皇室内ではすでに『範囲は内親王までとする』とのコンセンサスが得られていました。ご対象は愛子さま、眞子さん、そして佳子さまのお三方だったのですが、それも12年末に政権交代を迎えたことで一変します。新たに就任した安倍晋三首相はこの構想を『白紙にする』と明言し、女性宮家創設の気運は完全にそがれてしまったのです」(同)

 前述の小泉政権下で官房長官の任にあった安倍元首相は“男系継承論者”にもかかわらず、女系を容認した政府の方針に従わざるを得なかった。その心中はもどかしさで満ち溢れていたに相違なく、現に民主党政権が制度改正に向けて動き始めたさなか、

〈いったん消え去ったはずの、「女性・女系容認」の議論が、今また「女性宮家創設」と形を変えて復活しようとしている〉(「文藝春秋」12年2月号)

 といった内容の論文を寄稿していたほどである。かように「女性宮家」構想は安倍政権下で“敵視”されながらも、

「17年6月に成立した上皇さまの退位に関する特例法では『安定的な皇位継承を確保するための諸課題』『女性宮家の創設』等につき、すみやかに検討するよう政府に求める附帯決議が盛り込まれていました」(同)

「現在できる限りのことを精いっぱいなさろうというご覚悟」

 しかし、“すみやか”どころか政権の怠慢で引き延ばされ続けてしまう。こうした現状に上皇后さまは危機感を募らせていらっしゃらないはずがない。

 そのご覚悟が分かるのが、以下のエピソードだろう。目下、この議論に意欲を見せているのが額賀福志郎衆議院議長。保守派への配慮もあってこの議論を避けてきた前任の細田博之議長とは打って変わり、議長就任直後から意欲を見せていたという。

 そして、このように“前のめり”になっているのは、上皇后さまからの「重いお言葉」があったからだというのだ。前出の宮内庁関係者が明かす。

「額賀議長は就任後、上皇ご夫妻に謁見する機会があり、その際に上皇后さまから『(皇位継承に関する議論を)よろしく進めてくださいね』というご趣旨のお声がけを賜っているのです」

 この異例のお言葉を額賀議長は重く受け止めたということだろうか。あらためて本人に尋ねると、

「ようやく第1回の会議が開かれたところです。各党が意見を出してくれて、私はその意見を聞く立場。粛々と議論していくのは当然のことです」

 と、やはり前向きな姿勢がうかがえるコメントを語っていたのだが、「上皇后さまのご意向があったと聞きましたが」と告げるや、

「…………」

 それまでの冗舌がうそのように突然沈黙。しばし静寂ののち、一方的に電話は切れてしまったのだった。

 来るべき次代のために、御身を挺して皇室の将来への道筋をつけたいと願われる上皇后さまの思し召しは結実するのか。5月23日発売の「週刊新潮」では、安定的な皇位継承を巡る議論について詳しく解説する。

「週刊新潮」2024年5月30日号 掲載