山口組「顧問弁護士」が明かす暴力団平成史 私が渡った危ない橋(1/2)

「山口組顧問弁護士」。耳慣れぬ肩書だが、三十数年もの間その職掌を全うした人物がいる。山之内幸夫氏(73)。目下、分裂騒動に揺れる日本最大の暴力団の傍らに立ち続けた山之内氏だけに、さぞや世間の常識の及ばぬ「危ない橋」を渡ってこられたに違いない――。

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 鉄のベールに包まれた組織の内幕を綴った異色の回顧録『山口組の平成史』(ちくま新書)を世に問うたばかりの山之内幸夫氏に、まず「元山口組顧問弁護士」という立場について問うと、

「おそらく私が最初で最後の絶滅危惧職種でしょう」

 と破顔一笑する。

 山之内氏は1981年に、3代目山口組本部長で金融ヤクザのはしりでもある小田秀臣・小田秀組組長の会社の顧問弁護士となり、84年から山口組本体の顧問弁護士を2015年まで務めた。つまり、中興の祖・田岡一雄3代目組長から現在の6代目まで山口組4代の変遷を内側から目撃してきた、「教科書に載らない歴史」の生き証人ということになる。裏社会の星霜を40年近くも中からウォッチしてきた山之内氏に、山口組絶頂期のエピソードをひとつあげてもらおう。

「私は公私ともに親しかった宅見勝さん(5代目山口組ナンバー2である若頭)の招待で91年に、宅見組が主催する忘年会に出席したことがあるんです。その頃は日本中がバブル景気の高揚に酔いしれていた時代で、宅見さんは名実ともに裏社会の覇者として君臨、“経済ヤクザ”の名をほしいままにしていました。地上げや不動産取引の案件を相談に来る事業家が宅見さんのオフィスに門前市をなすといった光景を、誰も不思議に思わない頃のことです」

 景勝地・南紀の名門ホテルの大広間を借りて開かれた忘年会は、端から端までが見渡せないほど広い会場に土建、不動産から金融にいたる事業家、経営者が多数招待されていた。それぞれ組織や組幹部と縁故のある社長連である。

「誰かが挨拶で喋っても地鳴りのようなざわめきにかき消されるほど盛況でした。忘年会がお開きとなった後、本職の博徒もまじる賭場が立ち、オイチョカブの深夜博打が開かれましたが、とにかく社長連が張る金が半端ではありません。忘年会の心付けに各自1千万単位の現金を持参したうえに、博打に張った金の1割は胴元(宅見組)の懐に『寺銭』として入るのです。金を持っていない弁護士の私は、現ナマが行き来する迫力にただただ興奮していました。宅見さんに信用されていたためか寺銭の徴収係を仰せつかった私は、50リットルのビニール袋を寺箱にして1万円札を放り込んでいたら、いつしかそれも一杯になっていたので往生しました」

 山口組ナンバー2の宴会で徹夜賭博の寺主をしていたわけである。弁護士会に知れたら確実に懲戒処分は免れない。

 期せずして、暴力団社会の絶頂期の一コマを垣間見た氏。「稼業」に足を踏み入れるきっかけも宅見若頭との縁だった。

「小田さんの金融業の顧問を始めてまもなく、田岡親分の若い衆だった宅見さんの要請で山口組のヒットマンの弁護も受けるようになりました。ところが、その宅見さん自身が82年、配下に命じた9年前の抗争事件の首謀者として逮捕されてしまうのです。逮捕の翌日に面会に行くと、さっぱりした顔で『先生、認めましたわ』と。宅見さんは竹中4代目政権づくりで多数派工作に奔走した張本人で、そこで罪を認めればヤクザ人生が終わるだけでなく、山口組の後継者争いも大混乱となるのは必至でした」

 ヤクザの人生を左右するのはほんのささいな運であることが多い。このとき天は宅見若頭に味方した。山之内氏が面会したとき、彼は口頭で自白しただけで、まだ調書にサインしていなかったのだ。

「私は『親分、必ず殺人(容疑)はつぶしてみせます、天地神明に誓ってもいい。認めるのは絶対ダメです。認めたら、宅見は根性のない情けないヤクザでした、いうて天下に言いふらしますよ!』と、懸命に翻意を促しました。そのかいあって否認に転じた宅見さんは軽い罪で済み、再び山口組の中枢に復帰して、竹中4代目、渡辺5代目政権のキングメーカーとして実権を握っていきます」

 この機縁から宅見若頭の絶大な信頼をえた山之内氏は、ヒットマンの弁護にとどまらず、最高幹部と公私の別なく交流し、山口組の奥座敷を垣間見る立場になる。

映画の仕切り役

 ときは85年のプラザ合意により、日本経済が空前のバブル景気へと向かう時代。山口組では、竹中4代目政権に異を唱えて結成された一和会との史上最悪の「山一抗争」が繰り広げられたが、山口組がもてる武力を遺憾なく発揮して一和会を解散させえたのも、司令塔・宅見若頭の豊富な資金力(戦費)あってのことにほかならない。

 この山一抗争の実話を基に、その裏側でマグマのように燃えたぎる人間ドラマを山之内氏が小説化した『悲しきヒットマン』はベストセラーになり、三浦友和主演で映画になった。

 89年に抗争は終結。その翌年には、志茂田景樹の原作を中井貴一主演で映画化した「激動の1750日」が封切られ、これもヒットする。旬の“危ないネタ”の映画化にあたり、東映の岡田茂社長、大物プロデューサーの俊藤浩滋氏から実質的な仕切り役を任されたのが、顧問弁護士の山之内氏だった。

「東映は田岡3代目役を高倉健が演じた実録物『山口組三代目』を大ヒットさせた縁もあり、当時は窓口として私に白羽の矢が立っただけです。敵も味方も関係者が全員健在という状況で実録ドラマが成立したのは、宅見さんの度量によるところが大きかった。主人公のモデルとなった渡辺5代目本人に気になる点について相談しようとしたら宅見さんに『やめておきなはれ』と止められました。それではまとまる話もまとまらないと案じた宅見さんが最終的にケツを持ってくれたんですね」

 若い世代が守旧派にとってかわり、暴力社会の覇者として駆け上がっていく過程を描いた映画がヒットしたことで、裏社会はもとより世間一般にも「強い山口組」の武闘派イメージが浸透していった面は否めない。

 その暴力至上主義的イメージあってこそ、「事業の揉め事、とくにヤクザ絡みのトラブルは相談すればなんとかなる」という、経済界からの妙な“信頼”を手中に収めることにつながるのだ。

 前述の宅見組忘年会の狂態は、表経済に山口組が浸透していった蜜月時代の一コマにすぎない。

(2)へつづく

「週刊新潮」2020年2月13日号 掲載