安倍派幹部だった下村博文元文部科学相が永田町で失笑を買っている。3月に出席した政治倫理審査会では「知りません」を連発して口を閉ざしていたのに、最近になって急に「岸田首相が森(喜朗)元首相に経緯を詳しく聴取する必要がある」などと森氏への反撃を開始したからだ。「今更なんなんだ。国会に出てきた時にやれよ」(政治部デスク)などと永田町関係者はみな呆れ返っている。

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自民党に居場所がないと悟ったのか「新党結成」にまで言及

 5月15日、国会内で講演会を開いた下村氏は、安部派の政治資金パーティー収入の不正還流について饒舌に語り出した。まず、口にしたのは自身が受けた「党員資格1年停止処分」への恨み節で、

「真相解明がなくてただスケープゴートのような形で処分された」

 その後も止まらず、森元首相をターゲットにした発言を繰り出した。

「2005年にスキームができていたのは明らか。党として真相究明する必要がある」
「岸田首相が森元首相に経緯を詳しく聴取する必要がある」

 キックバックが始まったのは森氏が会長を務めていた時代であり、森氏の責任をちゃんと追及すべきという趣旨の発言だ。そして、今の自民党にもう自分の居場所がないと悟ったのか、

「自民にその活力がなくなった時に新党ということはあるかもしれない」

 と新党結成への意欲と取れるようなことまで言い出したのである。

文藝春秋の森氏インタビューにブチギレた?

 この動きに対して「じゃあ、政倫審に出た時のあの態度はなんだったんだ」と呆れて語るのは政治部デスクである。3月17日、自ら希望して政倫審に出席した下村氏だったが、「知らない」「わからない」を連発したのは周知の通りだ。

「下村氏は東京地検に裏金問題ネタをリークした張本人ともウワサされていた人物でしたので、あの時、マスコミと野党の間では『暴露を始めるに違いない』と期待が爆上がりしていたんです。けれど、蓋を開けたら何も喋らなかったので『いったいあの男は何をしたかったんだ』となった。野党幹部も『あの男に期待した俺たちがバカだった』と嘆いていました」(政治部デスク)

 急に公然と森氏批判を始めた理由は何なのか。

「5月8日に発売された文藝春秋に載った森氏のロングインタビュー記事が影響しているでしょう。”あの話”も蒸し返しながらボロクソに叩かれていましたから」(同)

 “あの話”というのは、同誌23年11月号にジャーナリストの森功氏が寄稿した「森喜朗元首相へ献上された疑惑の紙袋」というタイトルの記事。同記事で下村氏は、23年7月に「派閥の会長をやらせてください」と森氏の前で土下座して2000万円が入った紙袋を献上しようとしたが追い返されたと書かれた。

 密室内の話で、証拠音声などが提示されているわけではないので真相は不明だ。その後、下村氏は事実無根の記事で名誉を毀損されたと文春を提訴している。

 最新号で森功氏からインタビューを受けた森氏は、この話が事実だと認めた上で、

〈会長になろうとした夢が壊れた恨みがあるんでしょうね〉と下村氏をこきおろしているのだ。

 そして、自分の会長時代にキックバックが始まったという疑惑や22年8月にキックバック再開を決めた際、森氏の意向が働いたとする疑惑を否定し、下村氏をひらすら攻撃した。

〈下村君一人だけが、私がそこに関係しているかのように言っている〉
〈「私の記憶では(裏金作りは)二十年ほど前からやってました」と言ったのも、下村君です。なぜ彼がそう言ったのかといえば、私が派閥の会長を務めていた時期に引っ掛けたいから〉
〈下村君がマスコミに派閥の資料を持ち込んで売り込んだ、という類の話もあります〉

地元からは「次に出ても落選確実」

「下村さんも、ここまでコケにされては黙っていられないという気持ちになったのでしょう」(前出・政治部デスク)

 そんな下村氏を揶揄する画像が永田町関係者の間で出回っている。

〈もうガマンできない〉。

 画像に載っているのは35歳だった若かりし頃の下村氏の写真。1989年、下村氏が東京都議選に2度目の挑戦で初当選した時の「選挙公報」だ。キャッチフレーズが「まさに下村氏の心境を表している」と永田町で嘲笑の的になっているのである。

 選挙公報には〈今こそ一票一揆の投票を!〉のフレーズも踊っており、「新党」を口にし出したところとも被る。だが、地元の支援者は、

「仲間もいないのにどうやって新党なんて作るんですか。そもそも次の選挙では落選確実と言われています」

「あの時、刺しに行けばよかったのに」

 この選挙公報でもう一つ注目すべきは〈金権政治との決別 おカネのかからない政治活動の実行〉と訴えている点である。

「下村氏は2018年から5年間で476万円のキックバックを受けていたことが明らかになっている。先日の講演会では『秘書たちがやっていたので自分は知らなかった』などと言い訳をしていましたが、結果としては金権政治にズッポリ浸かっていたわけです」(前出・政治部デスク)

 講演会での“反撃”はもはや何の影響を及ぼさないと見られている。

「もう処分が終わり、法改正の議論に移っていますからね。ただし、キックバックが森さんの会長時代に始まったと見ているのは下村さんだけではありません。2006年に派閥会長を退いた後も事実上のオーナーであり続けた森氏には説明責任がある。にもかかわらず、岸田総理からの腰が引けた『電話聞き取り』と自分に都合の良いことばかり喋った文春インタビューで逃げ切ってしまった」(同)

 そして、下村氏に対して「どうせやるならあの時、刺しに行けばよかったのに」と重ねて言うのである。

「政倫審という、まさに男が一世一代の勝負をかける舞台が用意されていたのです。あの時、捨て身の覚悟で刺し違えに行けば、森さんを国会に招致するような展開になったかもしれない。ブルっちゃったんでしょうがね」(同)

デイリー新潮編集部