「王・長嶋の時代はなぁ」と遠い目をするオールド・ファン、「ゴジラ松井までは」追っかけていた団塊ジュニア世代、そして、いつの時代にも存在するアンチ巨人……誰もがいまだに巨人軍の“幻影”を追っている。

 しかし、現在のリアルなジャイアンツとは――。当代一の“巨人ウオッチャー”が、選手、監督・コーチ、球団・球場、ファンを切り口に「令和の巨人軍」の実像に迫る!

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2人の“育成の星”

 圧倒的な格差社会がそこにあった。

 数年前、初めて巨人宮崎キャンプ取材へ行った際の話だ。広大な敷地内の施設を見て回ると1軍、2軍、3軍でそれぞれ球場のグレードがまったく違う。スター選手が集う1軍の緑の芝が眩しいサンマリンスタジアムには観客や報道陣が集結、まさにスポーツニュースでいつも見るプロ野球の華やかな世界である。

 それが2軍練習場のひむかスタジアムは黒土のグラウンド上に強風で土ぼこりが舞う中、見物人もまばら。男子トイレでいきなり頭を洗う中堅投手と遭遇するハードな環境だった。おぉプロの世界は厳しい……と痛感していたら、さらに3軍練習場に向かい驚愕した。まるで草野球で使う町営グラウンドのような場所でファンも報道陣もほとんどいない。育成選手たちが文字通り汗と泥にまみれ白球を追いかけるリアル。間違いなく、高校や大学の強豪校の設備の方がはるかに充実しているだろう。ついでに宿舎も1軍はプール付きの豪華ホテル、2軍以下は部活動の合宿場のような雰囲気だった。

 プロ野球に育成選手制度が導入されたのが、2005年のことである。巨人がその秋の育成ドラフト1巡目で指名したのが山口鉄也、翌06年の育成ドラフト3巡目が松本哲也だ。彼らは立て続けに支配下枠を勝ち取り、山口は08年、松本は09年のセ・リーグ新人王に輝いた(育成から支配下登録へは07年2月松本、07年4月山口の順)。アメリカのルーキーリーグで4年間プレーするも芽が出ず、巨人入団テストを受け、育成選手から球界屈指のセットアッパーまで成り上がり、プロ野球記録の9年連続60試合登板を含む通算642試合に投げた鉄腕・山口。身長168cmの小柄な体形ながらも、09年にゴールデングラブ賞を獲得後は貴重な守備固めとして通算591試合に出た松本。いわばこのふたりが「育成の星」となり、巨人はその後も育成選手を増やしていく。

育成選手のリアル

 07年には巨人育成選手とイースタン・リーグの他球団選手の混合チーム「フューチャーズ」が結成され、09年からはロッテとの混合チーム「シリウス」で独立リーグや社会人チームと試合を組み、若手に実戦経験を積ませた。11年には序列的に事実上の3軍にあたる「第二の2軍」を発足させ、13年限りで一時廃止されるも(育成選手も22人から13人へと激減)、16年からは3軍制度を敷き、再び20人以上の育成選手が在籍している。

 しかし、だ。紆余曲折ありながら、なかなか長期的に活躍できる選手は育たなかった。これまで巨人から育成ドラフトで指名を受けたのは延べ73名、支配下を勝ち取った選手は内20名(19年終了時)。その中で、数シーズンにわたり1軍定着した人材は山口・松本以降は現れていない。とてもじゃないが、育成制度が機能していたとは言い難い状況だった。

 以前にもこの連載で「ジャイアンツ失われた10年」と触れたが、巨人の2010年代といえば、積極的にFA組や外国人選手を含む他球団からの補強を繰り返していた時期だ。といっても、90年代や00年代とは違い、すでに特Aクラスの超大物選手はメジャー移籍を目指す時代。良く言えば中堅・ベテランクラスで数年間つなぐ、シビアな見方をすればその場しのぎの場当たり的な補強が目立った。

 巨人が「超即戦力ルーキー」をことごとく獲得成功した1993年から導入された逆指名ドラフトも06年限りで廃止。つまり、30代の補強組が出場機会を得て、その壁に若手がはね返され、88年生まれの坂本勇人から96年生まれの岡本和真までの間に谷間の世代的な断絶ができ、結果的に世代交代が滞ってしまった。

 当然、ドラフト上位組ですら少ないチャンスをものにできなかったのだから、育成出身選手もなかなか1軍定着は遠い。例えば、広島国際学院大から入団した06年育成ドラフト4巡目の隠善智也という選手がいた。原監督も「天才的な打撃」と称したシュアなバッティングを武器にプロ2年目の08年3月に支配下登録を勝ち取ると、12年は2軍野手キャプテンを務め、打率.327でイースタン・リーグ首位打者を獲得。毎年2軍で3割近いアベレージを残しながらも、1軍にたまに呼ばれても結果を残せず、すぐジャイアンツ球場へ逆戻り。そうこうしている内に30歳を過ぎ、15年限りで現役を引退した(その後巨人球団スタッフへ)。

 驚くべきことに、隠善は2軍で通算2053打席に立った。あの頃、時々イースタンの試合を見に行くと、年下の選手たちに交じってプレーする背番号52をよく見かけた記憶がある。育成選手は支配下登録がゴールじゃない。そこがスタートだ。2010年代のジャイアンツ球場は、隠善のように第二の山口・松本を期待されるも、志半ばで力尽き天下を獲り損ねた男たちの汗と涙が染み込んでいる。

2010年代が巨人に残したもの

 だが、平成も終わり、令和が始まった今、そんな巨人の状況も変わりつつある。19年は育成出身(15年育成1位、17年7月支配下登録)の増田大輝が1軍で75試合に出場、代走の切り札としてチームトップの15盗塁を記録した。5年ぶりのリーグ優勝を決めた9月21日のDeNA戦で、延長10回に勝ち越しタイムリーを放ったのはこの叩き上げの苦労人・増田だった。

 さらに18年育成1位の山下航汰が、イースタンの打率.332で高卒ルーキーとしてはあのイチロー以来27年ぶりのファーム首位打者を獲得。早くも7月に支配下登録されると、1軍で初安打も放ってみせた。

 そして、育成新世代の出現とは対照的に、00年逆指名で巨人入りした阿部慎之助がプロ19年のキャリアに終止符を打った。ちなみに93年から導入され、06年まで続いた逆指名ドラフトで巨人を逆指名した選手は延べ22名。そのうち、最後まで巨人で生き残り現役を続けていたのが阿部だった。プロデビュー戦の01年開幕戦から10年連続開幕マスクを被った大黒柱。まさに松井秀喜と高橋由伸の後を継いだ、21世紀の巨人軍の象徴とも言える偉大な背番号10もバットを置く。これで、ついに平成巨人を支えていた「逆指名ドラフトの時代」が名実ともに終焉したのである。

 ひとつの時代の終わりと始まり。2010年代の巨人が獲得したFA選手も次々と現役を退き、今は村田修一、杉内俊哉、片岡治大、相川亮二、金城龍彦といった面々がコーチスタッフとして若手を指導している。ちなみに「元・育成の星」山口鉄也と松本哲也もいまやファームのコーチである。

 長い時間が経ったのだ。2010年代、若手の高い壁になり続けたFA移籍組が、今度はジャイアンツ球場で若手を育てている。さらに今オフには、元広島・丸佳浩の自主トレに同じ左打者の19歳山下が弟子入り。巨人からは初のポスティング制度での米ブルージェイズへ移籍が決まった元横浜・山口俊の沖縄自主トレには、18年ドラフト6位右腕の19歳戸郷翔征が参加。このFA組と投打のプロスペクトの組み合わせは興味深い。どんな仕事にも当てはまるが、その会社(球団)にずっといる先輩には気後れしてしまうが、同じ年上でも社歴の浅い転職してきたばかりの人になら色々と聞きやすいケースは多々ある。

「FA」と「育成」は、決して水と油ではなかったのだ。プロ野球のFA制導入から27年。気が付けば、令和の巨人で「FA組が期待の生え抜き若手を育てる」という球界の新たなサイクルができつつある。平成後期、この選手はいる、いやいらないとファンの間でも賛否を呼んだ……いや「否」の方が多かったあのFA戦線の数々。だが、2010年代の巨人の補強が正しかったかどうかの答え合わせは、まだ終わっていない。

 今日も男たちの喜びや悲しみを全部乗せてグラウンドでドラマは続いていく。誰が勝ったのか、誰が負けたのか。すべては2020年代の東京ドームで証明されるだろう。

(次回へ続く)

中溝康隆(プロ野球死亡遊戯)
1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。2010年10月より開設したブログ「プロ野球死亡遊戯」は現役選手の間でも話題に。『文春野球コラムペナントレース2017』では巨人担当として初代日本一に輝いた。著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『ボス、俺を使ってくれないか?』(白泉社)、『平成プロ野球死亡遊戯』(筑摩書房)など。最新刊は『原辰徳に憧れて ビッグベイビーズのタツノリ30年愛』(白夜書房)。

2020年1月26日 掲載