1968年(昭和43年)のメキシコオリンピックで、サッカー日本代表は銅メダルを獲得した。この大会で7得点を挙げ、得点王に輝いた釜本邦茂(76)は、世界に向けその実力を存分にアピールした。が、釜本が世界に挑戦することはなかった。釜本は何故、海を渡ろうとしなかったのか――?

 大会後、日本が生んだ最強のストライカーには、フランス、西ドイツ、ウルグアイ、メキシコ、エクアドルなどのクラブチームから次々とオファーが舞い込んだ。

「うちに来ないか、来てくれとは言われるんだけど、いまと違って代理人制度があるわけじゃないから、誰と交渉すればいいのかわからない。西ドイツのチームはルフトハンザの職員を使ってメッセージを伝えてきたりね」

 いざ契約を交わそうと思っても、肝心の交渉相手が見当たらない。やがて釜本は業を煮やした。

「翌年にはワールドカップ(W杯)予選をひかえていました。それを終えるまで待ってくれと言ったんですよ。日本はまだW杯の出場経験がなかった。だから、私が点を取って日本は初出場を決める。そうしたら、南米でもヨーロッパでも、どこにでも移籍してやるから、それまで待てと」

 悲願のW杯初出場の期待は高まったが、釜本が不意の病に襲われるのは1次予選を4カ月後にひかえた69年6月のことだ。代表合宿中に倒れ、緊急入院を余儀なくされた。医師がくだした診断はウイルス性肝炎。

 入院は50日にも及び、選手生命が危ぶまれるほど重篤な状態だった。ドクターストップを命じられた釜本は代表復帰を断念せざるを得なかった。

 釜本を欠いた日本代表は1次予選で敗退する。これで、海外のクラブチームに移籍するという釜本の夢も潰えた。

「世界に挑戦するなんて考えられなかった。立っているのがやっとで、もうサッカーは続けられんかもしれないと覚悟したくらいですから。完全復調するまで3年かかったんです」

サッカー人生の正解

 それでも、75年には2度目のオファーがあった。

 ピークを過ぎてはいたが、サッカーの神様と呼ばれたペレや“皇帝”と謳われたフランツ・ベッケンバウアーなどが活躍していた北米リーグからである。

「それはすぐに断りました。私も30歳を過ぎていたし、いまさらプロになろうという気もなかったですしね」

 78年から選手兼監督(プレイングマネージャー)を務めた釜本は、84年8月、「思い残すことはない」と言い残し、40歳で引退した。

「世界に挑戦していたら、通用したとは思います。それだけの自信はありました。でも、逆に30歳かそこらで引退して、サッカーとは縁のない人生を歩んでいたかもしれない。世界には“行けなかった”という思いがありますが、行けなかったからこそプレイングマネージャーも経験できたし、いまもこうしてサッカーと関わっていられるのだから、やっぱり、挑戦しなくて正解だったんですよ」

 17年にわたる選手生活で、釜本は251試合に出場。7度の得点王に輝き、通算202ゴールをあげた。その記録はいまも破られていない。オリンピックで得点王に輝いたアジア人は、後にも先にも釜本邦茂ただ一人である。

「週刊新潮」別冊「輝かしき昭和」追憶 1964-1989 掲載