鍛え抜かれた肉体と驚異的なジャンプ力によって繰り出される必殺技、“真空飛び膝蹴り”。助走なしで垂直に高く跳ね上がり、相手の顎に強烈な膝蹴りを叩き込む。この技が炸裂すると対戦相手はひとたまりもなくダウン。人々はこのKO勝ち見たさにテレビのキックボクシング中継にかじりついた。

 昭和40年代から50年代初頭にかけて、老若男女の目をリングにくぎ付けにしたキックボクサーがいた。元東洋ライト級チャンピオン、沢村忠(77)である。

「ジャンプがすごかったね。1メートル50センチ以上飛び上がったんじゃないかな。だって相手選手の肩に乗っかっちゃうんだから」

 そう証言するのは、元落語協会会長で、現最高顧問の鈴々舎馬風師匠。1967年(昭和42年)から76年までキックボクシングのリングアナをやっていたのだ。当時の芸名は柳家かゑる。

「彼は足のスナップがきくんだよ。対戦相手もケガをしたけど、沢村自身も反撃を喰らってあばら骨を折ったこともあった。真剣勝負のはずなんだけど、タイから来た選手の中に、沢村のキックが当たってないのに倒れたのもいたな。近くで見るとよくわかるんだ」

 リングを降りた沢村の素顔はといえば、

「彼は下戸なので一緒に飲むことはほとんどなかったけど、たまに銀座のクラブ『姫』でジュースを飲んでいた。でもものすごい人気だったから、女の子がみんな彼の方に行っちゃって面白くなかったね(笑)」

 沢村忠の本名は白羽秀樹。祖父から手ほどきを受けた空手使いで、剛柔流の空手では無敵を誇った。だが、キックの生みの親で名プロモーターの野口修と出会い、1966年にキックボクシングに転身した。以後、77年に引退するまで、241戦232勝(228KO)というお化けのような数字を残した。

一時、行方知れずに

「キックボクシングの火を消さないでくれ」。沢村の後輩だった元東洋ミドル級チャンピオン、藤本勲氏は、引退の際、沢村からこう頼まれた。その後、彼は人々の前から忽然と姿を消したため、死亡説にパンチドランカー説など様々な憶測を呼んだが、藤本氏は否定する。

「沢村さんは唯一の趣味が自動車だったので、引退後、東京の目黒で自動車修理工場を経営していました。空手を子供たちに教えていたこともありますよ」

 家族は引退後に結婚した妻と1男2女。長女の白羽玲子は一時、タレントとして活躍していた。その彼女は以前、こう語っていた。

「父の昔のことは中学2年の時に初めて知りました。『玲子ちゃんのお父さんってあの沢村忠なの?』って友達が聞くんで、家に帰って父に尋ねたら、『まあ、昔なあ……』ってそれだけ。その後、家族みんなで父のビデオを見たんですが、お父さん、あんまり若くて笑っちゃいました」

 沢村は昨年まで、藤本氏の主宰するジムに月に1回は顔を出し、後輩たちを激励していたというが、最近は体調を崩して姿を見せないそうだ。

「でも精悍な風貌は昔と変わらず、普通の老人とはやはり違いますよ。時には電話で、初孫が生まれた?なんて話もします」(藤本氏)

 月日は流れ、あの沢村もそんな年齢になったのだ。

「週刊新潮」別冊「輝かしき昭和」追憶 1964-1989 掲載