にっぽん野球事始――清水一利(12)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第12回目だ。

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 日本に初めて野球を伝えたホーレス・ウィルソンをはじめ、平岡熙、正岡子規、中馬庚など日本において野球の発展に寄与した人物は数多くいるが、その中でももっとも大きな貢献をした人として、いの一番に名前を挙げなくてはいけないのが「日本野球の父」ともいわれる早稲田大学初代野球部長・安部磯雄である。この安部を語らずして日本の野球の歴史を振り返ることはできないだろう。

 安部は1901(明治34)年に野球部長に就任した後、1930(昭和5)年から1932年(昭和7)年まで東京六大学野球連盟の初代会長、さらに終戦後の1947(昭和22)年には日本学生野球協会の初代会長に就任し、1949(昭和24)年に84歳で死去するまでその職を全うした。まさに「日本野球の父」と呼ばれるにふさわしい人物だ。安部は1865(元治2・慶応元)年、福岡県福岡市に黒田藩士・岡本権之丞の次男として生まれた。徴兵忌避のために安部家の養子となり、安部姓を名乗るようになった後、1899(明治32)年、早稲田の前身である東京専門学校の講師に、そして1907(明治40)年から早稲田大学の教授となった。

 しかし、安部自身は早稲田のOBというわけではない。地元福岡の私塾向陽義塾(現在の福岡県立修猷館高校)を経て、新島襄が1875(明治8)年に京都に創設した同志社英学校(現在の同志社大学)に入学している。

 敬虔なクリスチャンであった安部は「知識は学習から、人格はスポーツから」という、当時としてはひじょうに進歩的な考えの持ち主だった。その考えを安部は野球においても遺憾なく発揮している。

 安部がいつから野球に興味を持ったのかは本人が一切語っておらず、記録にも残っていないので定かではない。

 また、安部はテニスの愛好者であり、テニスに熱中していたことはあるものの、野球をプレイしたという事実もないが、同志社で野球が始まったのは1892(明治25)年ごろと推定されているので、おそらく、安部が同志社を卒業してアメリカのハートフォード神学校に留学していたちょうどそのころ、そこで野球を知り、その楽しさを知ったのではないだろうか。

 安部をめぐる野球に関するエピソードはいくつも知られている。その最たるものが前回ご紹介した東京朝日新聞による「野球害毒論」のキャンペーンが巻き起こった時だ。押川春浪が主催した「野球問題大演説会」で観客を圧倒し、もっとも熱中させたのは、日露戦争を勝利に導いた将軍のひとり、乃木希典を痛烈に批判した安部の大演説だった。

 当時の早稲田のユニフォームは赤みを帯びた、その当時としてはかなり斬新なオシャレな色合いのものであった。ところが、学習院の院長に就任していた乃木は野球と赤が大嫌いだったため、学習院との試合のためにユニフォーム姿でやって来る早稲田の選手たちに対して、「正門から入る際には必ず袴を着用すること」「ユニフォームは何かで包んで校内で着替えること」との注文をつけていた。

 以前からこのことを不満に感じていた安部は、これを念頭に置いて、「どうして赤が悪いのだ。野球選手が赤を使うのがいけないというのなら、軍人はどうだ? 彼らだって赤い肩章をつけて赤い帽子をかぶっているではないか」といって乃木を攻撃し、観客から大喝采を浴びたという。

 ちなみに、日本の野球に多大な貢献をした安部は後年、衆議院議員となり、社会党の前身である社会民衆党を結成するなどキリスト教的人道主義の立場から社会主義に生涯を捧げた人でもあったのだ。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!〜3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年5月2日 掲載