今年2月11日に84歳でこの世を去った野球解説者の野村克也さん。現役時代には史上二人目の三冠王を達成するなど、輝かしい成績を残した名選手だった。そこで、今回は、1963年、南海時代の野村さんが「生涯唯一狙って打ったホームラン」を巡る話を振り返ってみたい。(以下、敬称略)

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 1962年、南海の主砲・野村克也は、9月30日のシーズン最終戦、近鉄戦(藤井寺)で、別当薫(毎日)が持つパ・リーグ記録、シーズン43本塁打を12年ぶりに更新する44本塁打を達成した。

 翌63年も、129試合目の9月22日の近鉄戦で41号を放ち、50年に小鶴誠(松竹)が樹立したプロ野球記録のシーズン51本を射程圏にとらえた。残り21試合で11本。単純計算して、2試合で1本以上のペースで打てば、小鶴の記録を抜くことができる。だが、野村は「無理だろうな」とボヤいた。

 その理由は、チームが2年ぶりのリーグ優勝をかけて、2位・西鉄と争っている真っ最中だったからだ。

 7月に2位・東映に10.5ゲーム差をつけ、独走していた南海だったが、最大14.5ゲーム差も離されていた西鉄が8月、9月をいずれも大きく勝ち越し、ひたひたと迫ってきたため、安閑としていられなくなった。

「今が優勝への大事なときだ。個人プレーが許されない。優勝が決まってからでは、ゲーム数はいくつも残っていないし……」とチームプレーを強調した野村。「だが、ワシは一生懸命やってみるつもりだ。45本までは、あと4本だろう?これくらいなら打てるやろ」と目標ラインを下げ、自身の記録更新に切り替えた。ここから“奇跡的なアーチ量産”が始まる。

 本拠地・大阪球場に西鉄を迎えての天王山の4連戦、野村は9月24日の初戦に42号、同26日に43号を放つが、チームは0勝3敗1分とひとつも勝てず、空砲に終わる。だが、同29日の阪急戦で44号ソロと45号決勝2ランを放ち、わずか7試合で「あと4本」の“公約”を実現したばかりでなく、チームの連敗も「5」で止めた。2位・西鉄との差も3.5ゲームに開いた。

「ああ、これで今年の約束(45本)は果たせたよ」と安堵した野村は、熾烈な優勝争いのなか、その後も順調なペースで本塁打を重ねていく。

 10月2日の東映戦で46号、同12、13日の阪急戦でダブルヘッダーも含む3試合連続の47、48、49号を記録。この間、怒涛の9連勝の西鉄に首位を奪われたものの、ついに日本記録まであと3本に迫った。

 とはいえ、残り4試合で3本という条件はきつい。野村自身も「何言うてんねん。前から言ってるやろ。優勝することが第一で、優勝できなかったら、新記録をマークしても、おもろないわ」と取り合わなかったが、「ただ(優勝がかかって)ワシが打たねばという心の張りがあることだけは確かや。それが結果的にホームランになって現れているだけや」と、チームプレーの中で結果がついてくることまでは否定しなかった。

 そんな野村を、鶴岡一人監督は「いつも疲れたような顔をしている。あれはとぼけているのかなあ。もし意識してああいうポーズを取れるなら、野村という奴は大した男だ」と評している。野村とは折り合いが良くなかったといわれる鶴岡監督だが、なかなか面白い人間観察力である。

 10月14日、南海は8対3で阪急に大勝し、0.5ゲーム差で奪首に成功するも、翌15日は西鉄に2対3で敗れ、1日天下に終わる。

 翌16日も、3回に西鉄に1点を先取される苦しい展開。劣勢を救ったのは、野村のバットだった。0対1の4回、右越えに3試合ぶりの50号逆転2ラン。再び1点をリードされた9回にも日本タイの左越え51号同点ソロで延長戦に持ち込む。そして13回、代打・穴吹隆洋(義雄)の劇的なサヨナラ3ランが飛び出し、再び0.5ゲーム差で首位に返り咲いた。

 翌17日は泣いても笑ってもシーズン最後の近鉄戦(大阪)。「昨日の試合は疲れた。だが、あんな試合をやると、うまくなるんや」と上り調子をアピールした野村だったが、力んでしまい、1打席目から三飛、死球、三ゴロと快音が聞かれない。

 そして、3対0とリードした7回の4打席目、野村はマウンドの山本重政の顔を見て、ハッとした。

「おかしいんだ。ふと去年の44号を思い出している感じなんだ」

 実は、前年、野村がシーズン最終戦でパ・リーグ新の44本塁打を放ったのも、同じ山本−児玉弘義バッテリーからだった。当然2人は「2年連続で新記録となる本塁打を打たれたらたまらない」と考えているはず。案の定、初球から外角低めに3つ続けて外してきた。シーズン最後の打席が四球で終わることを半ば覚悟した野村だったが、「(4球目も外角攻めで)カーブかなと思ったけど、思い切って引っぱたけと思って振ったよ」と、一か八かの賭けに出る。

 幸いにも4球目は、完全なボール球ではなく、ギリギリバットが届くコースに入ってきた。ここぞとばかりに野村が踏み込んでフルスイングすると、低い弾道のライナーがショートの頭上を越え、左中間席最前列に飛び込んだ。

「フェンスに当たるかと思ったら入ったな。胸が一杯になった。運が良かった。まあ、最後で西鉄とせり合ったことも大きいですね。大事に打ちましたから。本当にでき過ぎですよ」。

 これが「バットの芯に当てることしか考えていない。ヒットの延長がホームラン」とする野村にとって、「生涯唯一狙って打ったホームラン」だった。

 これでチームも優勝すれば、“両手に花”だったのだが、1ゲーム差で追っていた西鉄が残り4試合(いずれも近鉄戦)を全勝し、史上最大のゲーム差で奇跡の逆転V。「これで10年ぐらいはオレの名前が残るな」と思った本塁打記録も、翌64年、王貞治(巨人)が55本を記録したため、たった1年で更新されてしまった。

 華やかな舞台の裏でひっそりと咲く“月見草”らしい結末と言えるかもしれない。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」上・下巻(野球文明叢書)

週刊新潮WEB取材班編集

2020年5月5日 掲載