にっぽん野球事始――清水一利(13)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第13回目だ。

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 早稲田大学初代野球部長・安部磯雄は、その生涯にわたって早稲田野球の発展にさまざまな貢献をしている。その一つが1902(明治35)年秋に専用のグラウンド、当時の名称でいえば戸塚球場を完成させたことだ。

 専用球場の建設に当たっては安部が大隈重信を、「日本の国際化のためには野球の発展が欠かせない」と説得、野球を教育の一環としてとらえていたことから大学の所在地である戸塚町の農地を借り受けて実現した。

 現在残っている資料を確認すると、両翼は97メートル、センターは121メートルあり、外野のふくらみや観客が観戦するためのスタンドもなかったものの、それでもこの当時の野球場としてはかなりきちんとした球場だったといえるだろう。1904(明治37)年にはここで早慶戦が行われ、早稲田は記念すべき本拠地第1戦を13対7で勝利している。

 その後、戸塚球場は海外チームとの試合や1914(大正3)年から始まった早稲田、慶應、明治の3校による三大学リーグ戦に使用されるようになり、1925(大正14)年には観客のためのスタンドを設置。翌1926(大正15)年に神宮球場が完成するまで、東京六大学リーグ戦の主要球場として使用されるなど当時の野球界にとって重要な役割を果たした。

 東京六大学リーグ戦の舞台が神宮球場へと移っても、戸塚球場は野球界にとってなくてはならない存在だった。1931(昭和6)年の新五大学リーグ(現在の東都大学野球連盟)の結成試合や1936(昭和11)年に始まった日本職業野球連盟(現在のプロ野球)の試合が開催されたのもここだった。

 また、同じ年の7月には「日本職業野球連盟結成記念大会」が開かれ、タイガース対金鯱、タイガース対セネタースの2試合をNHKラジオ第1放送が実況中継を行ったが、これは日本で初めての職業野球のラジオによる実況中継放送であった。

 さらに、戸塚球場にはもう1つ、野球界で初となるものがあった。

 それは1933(昭和8)年6月に夜間照明設備が完成、7月10日に日本で初めてのナイター試合が早稲田2軍と新人の間で行われたということだ。記録に残っているプロ野球公式戦での初ナイターは1948(昭和23)年8月17日の横浜ゲーリッグ球場での巨人・中日戦ということになっている。

 しかし、戸塚球場ではそれより15年も早くナイターが行われていたのである。ちなみに、早稲田2軍対新人の試合は11対2で2軍チームが勝利している。

 そして、この戸塚球場の名をさらに有名にしたのが1943(昭和18)年10月16日に行われた早慶戦、映画にもなった、いわゆる「最後の早慶戦」だ。

 学徒出陣をする選手たちが白球を追い、試合後には両校の選手たちが「海ゆかば」を歌って戦地での健闘を称え合ったことは戦時中の美しくも悲しい出来事として、いまでも語り草となっている。アメリカと戦争をしている真っ最中であり、野球が敵性スポーツとみなされて軍部から冷遇されていたこともあって、神宮球場が使用できないなど開催までにはさまざまな苦労があった。

 しかし、早稲田の野球部員はグラウンドの整備はもちろん、観客席、トイレにいたるまできれいに磨き上げて慶應を迎えたという。そして、慶應もこれに応え、試合後、学生たちは紙くず一つ残さず席を立った。これまた、いまでも語り継がれているエピソードだ。

 その後、終戦とともに野球が復活。空襲によってバックネットなどを失っていた戸塚球場も戦地から戻ってきた学生たちによって復興された。

 1949(昭和24)年、安部が84歳で死去すると、その長年の功績を称えるため戸塚球場は「安部球場」と改称され、その後も早稲田野球部の「聖地」として多くの野球人を育てた。

 そして、1987(昭和62)年11月22日、「さようなら安部球場・全早慶戦」を最後に安部球場は閉鎖され、その使命を終えた。全天候型の最新設備を備えた日本初の屋根付き球場、東京ドームが開場したのはその翌年の1988(昭和63)年のこと。昭和から平成へ、まさに時代の移り変わりを象徴する出来事だった。

 その跡地は現在、国際会議場、中央図書館などがある「早稲田大学総合学術情報センター」となっており、当時を偲ばせるようなものは何1つ残ってはいない。

 ただし、同センター内の一角には安部と初代監督・飛田穂洲の胸像が置かれている。この2体は安部球場のセンター後方にあった胸像を移築したもの。かつてここに野球場があり、野球史に残る多くの出来事があったことを証明する唯一の証となっている。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!〜3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年5月9日 掲載