「働けるなら日本で…」

 中国政府が推進する「千人計画」は、世界中の優秀な研究者を好待遇で集めるプロジェクト。米国をはじめとする各国は科学技術を盗まれる懸念から警戒を強めているが、実は日本人研究者も多く参加している。その背景には、我が国の研究環境の劣悪さがあるという。実際に計画に参加する日本人たちの本音とは――。

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 中国政府は現在、学術研究に圧倒的なカネを投下している。科学技術の予算は、2016年度の時点で22兆3988億円と日本の6倍以上。20年前は、日本と中国は共に約3兆3千億円前後と拮抗していたのに、破竹の勢いで予算を投入し始めたのだ。

 中国トップ10に入る最難関大の一つである浙江大学で、サルなど霊長類の遺伝子を研究する高畑亨教授(43)によると、

「論文が掲載されたら報奨金を出すなど必死なのは、習近平国家主席が科学大国になると宣言していて、面子をかけて“論文掲載数世界一”を目指していることが背景にあります。そのこだわりは非常に強く、外国人の論文でも、中国の研究所や大学発の論文として発表させようという取り組みをしている。一方で、米国や日本の研究者は自分の研究結果が論文になればいいと思っているので、どの国から発表される形になろうが、その点はあまり気にしていません」

 とはいえ、「千人計画」に選出されると課せられるノルマは厳しいとも話す。

「論文を出さなければいけないプレッシャーはキツイですよ。自分の場合、与えられた研究費は5年分だけですから、それ以降は中国で企業や省のプログラムに応募しないとゼロになってしまう。自分を含めて中国に来た若手の研究者は、働けるなら日本にいたいというのが本音です。給料や研究費が高いから中国に行くのではなく、日本に研究者としてのポストがない。だから中国へ行くしかなかったのです」

中国からノーベル賞が続出?

 止まらない人材流出の影響はすでに表れ始めた。ニッポン人の受賞ラッシュが続いたノーベル賞で、今年はまさかのゼロ発表も決して偶然ではない。

「中国はいま、ほとんどノーベル賞の受賞者がいませんが、これから先は基礎科学の分野においても、どんどん出てくると思います。あと10年もしたら、目に見えて結果が出てくるんじゃないですか」

 と懸念を示すのは、16年にオートファジーの研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した、東京工業大学栄誉教授の大隅良典氏(75)である。

「このままいけば、日本で活躍の場がないからという理由で、基礎科学者が中国に流出することが、今以上に増えていくと思います。中国は基礎科学の分野においても、お金の使い方、スピード感が違いすぎる。実際、私もお声がかかることがありましてね。年間で1億円の予算を確保しますとか、そのくらいの予算は我々の分野では使うものなので、ものすごく高額というわけではありませんでしたが、学生はヤル気も能力も高いでしょうから、魅力的ではあったけどお断りしました。日本でもそれなりに仕事ができていましたし、齢をとってから北京の汚い空気の中で生活すると思うと……」

 そう明かした上で、こんな警鐘を鳴らすのだ。

「私はかつて東大の理学部で植物学を研究していたから分かるのですが、20年ほど前なら中国は稲の研究など、作物の増産に結びつくような研究ばかりにしか予算がついていなかった。だから、言い過ぎかもしれませんが科学者として脅威を感じることはありませんでした。でも、今はまったく違います。基礎科学を大事にしており、何をやってもいいような自由がある。非常にレベルが高くなっており、量も質も敵いません」

「お金が貰えないと困る」

 対して日本はといえば、

「コロナの問題でも、感染症対策や創薬の話をする以前に、ウイルスって何ぞやという研究をするにもお金が要る。ところが、日本ではウイルスがどのようなメカニズムで増えるかなど、基礎的な研究をするのが非常に難しい。ベーシックなサイエンスに予算が下りないわけです。これはとってもまずいことだと思います」

 背景には、04年の国立大の独立行政法人化で、交付金が減らされたことがある。深刻なのは、日本の若い科学者たちの中に、予算がつくような研究をしなければいけないという意識が沁みついてしまったことだと、大隅氏は嘆く。

「日本は財務省の役人に分かって貰えるような研究なら何とか予算がつく状況。お金が貰えないと困るという感覚が叩き込まれてしまっていて、この研究が“面白いからやります”という申請書が作られない。今の日本のやり方は、研究にお金を出したらその分の見返りがなくてはいけないというもので、これでは絶対に上手くいかないと思います」

 いったいどういうことか。

「そもそも科学というものは、見返りを求めたら成り立ちません。長い目で見たら1億円の研究から100億円が生まれるかもしれないけど、短期間の結果だけをみたら0円かもしれない。日本では評価のタームが数年単位とあまりに短すぎるんです。何も無駄なことをさせてくれと言っているわけではなくて、数年で成果が上がりますという研究は科学じゃない。私が政治家で本気で国力を上げようと思ったら、20年、30年後に花が咲くようなお金の使い方をしますよ」

「日本は先頭集団の最後尾にいる」

 18年にノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑・京都大学特別教授(78)も、

「私が免疫の研究を志したのは1972年のこと。オプジーボの基になったPD−1という分子を発見したのが92年で、それをがんの治療に使う原理を見つけたのが02年。製薬会社が薬にして認可されたのが14年ですから、トータルで40年かかった。もっとも生物学のような分野では、そのぐらいのタイムスケールは当たり前なのです」

 そう指摘した上で、

「研究者になる上での最大のメリットは、若いうちから好きなことができること。サラリーマンなら30代までは会社の使い走りですが、実力のある研究者なら35歳にもなれば好きな研究に打ち込める。私も東大で研究を始めた頃は30代でしたが、年間500万円ほどの運営費交付金という自由な研究費をいただけたことで、なんとか生き延びることができました。けれど、今の日本では40代以下の研究者は大変つらい思いをしていると思う。彼らの環境を整えなければいけません」

 加えてこう提言する。

「マラソンにたとえるなら、今の日本は優勝争いを繰り広げる先頭集団の最後尾にいる状況。一度でも脱落すれば、挽回には大変なエネルギーが要りますから、今がまさに、我が国の科学技術政策を見直すラストチャンスなのです」

 図らずも「千人計画」のベールを剥いで見えてきたのは、我が国の目を覆いたくなる構造的な惨状だった。

「週刊新潮」2020年10月29日号 掲載