歌手・倉木麻衣さんの実父で映画監督の山前五十洋さん(享年76)が心不全で亡くなったのは4月5日。逝去から1カ月が経ち、山前さんの晩年を支え、最後を看取った女性が「これまでどこの取材もお断りしていたんです……」とためらいながら、本誌に初めて倉木麻衣さんと父親の知られざる絆を語った。



 突然の死は4月5日の朝、やってきた。午前7時過ぎ、病院から知らせを受けた女性Aさんはすぐに駆けつけた。

「早朝、山前さんは自宅で体調が悪くなり、自分で救急車を呼んだそうです。私が病院についた時には、もう息がありませんでした。救急車で運ばれている途中で、息絶えたと聞きました」

 山前さんは首からお守りのように、常にAさんの電話番号を書いた連絡先のカードをぶら下げていた。そのため、病院がAさんに連絡したのだった。山前さんは東京のアパートで一人暮らしだった。身内は弟と実娘の倉木麻衣さんだった。

「まず、京都にいらっしゃるという弟さんに電話しました。病院から死亡届けを提出するには身内の方が必要と言われましたので。弟さんは電話に出られましたが、体調を崩されていて、対応するのが無理そうで、こちらで対応してくださいと言われました」

 悲しみの渦中、Aさんは次に実娘の倉木さんに連絡を取った。山前さんは倉木さんと約20年の断絶状態が続いていたが、思い切って、Aさんは所属事務所「ビーイング」に電話を入れたのだ。

「身内の方みなさんに拒否されたら、自治体の方で無縁仏になってしまう可能性があるので、事務所に電話しました。ちょっと考えてみますという返事をもらった翌日、『葬儀も納骨もすべてこちらで行いますから』とありがたいご返事がいただけました。ホッとしました」

 4月7日、密葬が営まれ、倉木さんも参列したという。山前さんが生まれ育ったのは京都・下鴨だった。

「京都に山前さんのご両親が眠る墓があり、山前さんはそちらに埋葬されるそうです。私も、頃合いを見て、京都にお墓参りに行ってこようと思います」

 倉木さんは事務所を通じて、こうコメントした。

「昨年デビュー20周年を無事に終えて、父との再会を考えておりましたが、しっかりと心の整理が出来た時に会ってお話が出来ればと思っていました。父との別れは、突然でまだ受け止めきれておりません。ただただ残念でショックです」

 山前さんは倉木の事務所「ビーイング」創業者の長戸大幸氏と京都で知り合い、50年来のつきあいがある。生前、記者にこう語っていた。

「麻衣がまだ高校生の頃、私は妻と離婚した。娘が歌手デビューしたのはまだ離婚前の1999年12月。娘がその後、『倉木麻衣』と名前を変え、スターになっているのは、知らされていなかった。知ったのは離婚後だった。それから私の不徳の致すところで、娘と会えなくなってしまった」

 倉木さんが歌手デビューしたのは高校2年の時。ファーストアルバムは400万枚を突破するセールスとなった。デビュー当初はテレビにほとんど出演せず、顔を含めてベールに包まれた存在だった。

 山前さんは生前、記者に1975年にテレビ東京で放送された「運命屋稼業」の主題歌を送ってきたことがある。こうコメントがつけられていた。

「僕が製作、監督したテレビドラマ(主演、由美かおる)の主題歌です。作詞は僕、作曲は倉木麻衣をプロデュースしたかつての僕の親友・長戸大幸氏です」

 山前さんは長戸大幸氏と京都郊外の喫茶店で知り合った。当時、長戸氏がギターの弾き語りをしていたという。

「長戸さんがつくった事務所で、妻が経理の手伝いをしていた時期がある。そういう関係で、娘が長戸さんのところでデビューすることになったのでしょう。長戸さんに私も知り合いを紹介して力になった」

 山前さんは高校2年で、1960年から1年2カ月に渡って毎週放送されたフジテレビの時代劇ドラマ「天馬天平」の主役の天平役に抜擢され、シリーズ52本のドラマを撮った。それからはCMディレクター、Vシネマの制作、監督などを務めた。

 晩年は映画やネット配信をしていた。役者として「天馬天平」の栄光をもう一度という意気込みをよく語っていた。 しかし、記者が山前さんから心臓の手術について聞いたのは2年半前。

「心臓弁膜症の手術を受けようと思う。横浜の名医の先生に執刀してもらおうと思う」

 2017年12月15日に心臓手術。 手術は成功し、横浜の病院にお見舞いに行くと、痩せていて、Aさんが付き添っていた。

「映画監督としての山前五十洋、再び生かされました。これからも作品を撮り続けます。執刀医からは退院したらバンジージャンプだって大丈夫と言われた」
 
 こんな冗談を言って、張り切っていた。当時、病院のベッドで、12年ぶりに「NHK紅白歌合戦」出場が決まった娘の倉木さんにについて、こう語っていた。

「麻衣は僕の心まで見ています。知っています。だから(デビューして)18年も頑張って来ています。その結果が12年ぶりの紅白出演として実現したのです。僕は麻衣には常に静かにそーと見守るのが真の親のすることだと思っています」

 2018年11月になると、緊急入院したと再び、本人から知らせがあった。本人からこういうメッセージがあった。

「麻衣の東京国際フォーラムライブに行って、帰って来たところ、急に寒気がして、40度の熱が3週間続きました。そして今、入院しています。心臓の近くに悪い菌が入り込んでいるので、毎日痛い。3週間、点滴の毎日を過ごしています。点滴は、体の中に入り込んだ悪い菌を退治してくれます。痛い時もしばしば、我慢の毎日です。感染性心内膜炎という病気です」

 看取ったAさんはこの時のことを回想する。

「点滴の針を刺すのに、動脈が細く、腕や足には針が入らず、首に刺していた。脳に近いから本人も気にしていたんですけれど、とても痛々しい姿でした」

 1カ月半で退院し、山前さんは周囲に「私は不死身だ」などと語り、活動を再開した。

 昨年、倉木さんはデビュー20周年で「記念ライブ」を全20公演を行ったが、山前さんは昨年10月28日、倉木の37歳の誕生日に、東京・中野でテレビドラマ「天馬天平」から60周年の記念ライブを開催した。

「お客さんは300人近くいたと思います。とても盛大でしたよ。ただ、段取りが悪くて、私は3時間半も待たされ、観客が帰り始めて数十人になった頃、マジックショーをやりました」

 ゲスト出演したハマック柳田氏はこう振り返る。山前氏が昨年制作したコメディホラー映画「MAGIC」にも主演した。

「山前監督は人がいいので、これまで騙されてきたケースが多かった。『お金取られた』とか言っていたこともありました。ホラー映画は続編の出演も頼まれました。突然、亡くなったという知らせを受けてビックリですよ。この時期ですので、まさか新型コロナに感染したのかと思ったのですが、検査もしてないのでどうなのかわからないらしいですね。ともかく、心臓の持病が再発したということは確かです」

 亡くなる2日前も、東京・北千住のスタジオで、自身が主催するネット番組に出演していた。

「そのときには食欲がなくて、いつもより気弱になっていたのがすごく気になっていました……」(Aさん)

山前さんは今年に入ってから、だんだんと体が弱って来ていたという。

「亡くなる数日前も、眠れないと言って病院へ行っていました。医者からは『肺に水が溜まっている』と言われてました。塩分の摂りすぎで、血圧が185とか200近くあって高かったんですよ。4月になったら心臓のカテーテル検査をする予定だったのですが、それまで持たなかった」(同前)

山前さんは昨年末、記者に倉木さんとの思い出をこう語っていた。

「麻衣ちゃんが3歳の頃、クリスマスのプレゼントに靴下とおもちゃのグランドピアノをあげました。麻衣ちゃんはおもちゃのピアノを一生懸命弾いていたので、ローンで本物のピアノを買ってあげ、近所のピアノの先生に習わせていた」

 倉木さんは山前氏との日々を事務所を通じて、こうコメントした。

「色んなことがありましたが、近年ではライブを観に来ていただいて、差し入れなど入れて頂き、陰ながら見守っていただいていました。父との思い出は沢山あります。幼い時からの楽しかったエピソードを思い返しますが……。父と私の大切な思い出として心に収めさせていただきたいと思います」

 前出のハマック柳田氏はこう語る。

「ずっと会いたがっていた麻衣ちゃんに、最後の最後、骨になってからでも会えて良かったと思います」

 山前さんの晩年を支えたAさんは山前さんの事務所「OCEAN50」に所属。監督とアシスタントという関係だったという。

「監督はホントに麻衣さん、麻衣さんでした。麻衣さんのために生きていたような人です。これからは麻衣さんの背後霊のようにべったりくっついて離れないのではないでしょうか。麻衣さんの活躍だけが、監督の一番望むところでした」

 山前さんは昨年末、記者に自身が作詞した「MY LOVE〜娘よ〜」というバラード曲を送ってきた。本人が「きっと僕は君のパパでずっと変わらず」と歌っていた。

 生前の再会はかなわなかったが、父娘の絆は深い。ご冥福をお祈りします。
(本誌 上田耕司)


※週刊朝日オンライン限定記事