舞台「佐渡島他吉の生涯」の、あの森繁久彌さんの当たり役と言われた明治〜昭和を生きた人力俥夫・佐渡島他吉役を演じることになっていた佐々木蔵之介さん。現在52歳。“二枚目”であり“実力派”であり“個性派”でもある蔵之介さんは、今や、演劇界のみならず、映像の世界でも確固たる存在感を発揮しているが、演劇に出会うまでは、意外にもコンプレックスの塊だったという。



「兄がとても優秀だったので、そこに引け目を感じていたというのがあります。京都の洛南という進学校に進んだものの、成績は下のほうでした(苦笑)。1浪して東京の私大に入ってからも、別の大学に入りなおそうと思って予備校に通ったりして。当時はいろんなところで心を閉ざしていた。それから神戸大に入って、突然勉強しなくてもよくなって、暇を持て余していたとき、演劇に出会ったんです。舞台上で、お客さんに拍手をいただき、笑っていただけたことで、何かひとつ“認められた”という感じはありました」

 人前で話すことは、もともと得意ではなかった。演劇の世界に足を踏み入れたのも、「家業(造り酒屋)を継ぐなら、人前でうまく話せるようにならないと」と思ったことが動機の一つ。

「でも、演劇に出会ってからは、仲間たちとの関係を“ここで終わらせられない”と思ったんです。芝居は、僕のそれまでの人生で長く続けることができた唯一のことでした。もしかしたら、唯一の“夢中になれる遊び”であり“自己表現”だったのかもしれない」

 大学を卒業後、関西の広告会社に勤務したこともある。劇団を辞めて、単身上京したのは、30歳のときだ。

「30歳で上京は遅すぎる、なんてことも言われましたけど、『遠回りしたな』と思うことはないです。劇団で頑張ったことも、会社に入った2年半のことも、後々の力になっている。当時の仲間とは今も付き合いがありますし、劇団時代に知り合った人たちとお仕事でご一緒したりもしてます」

「そういえば」と、マスクの上の瞳がキラリと輝き、「効率の悪い働き方なのかもしれませんけど、佐渡島他吉の生き方なんかまさにそうで。働いても働いても、彼の生活は向上しない。でもそれを笑い飛ばそうとする明るさがあるんです」と嬉しそうに話を続けた。

「たとえば、人力俥を引きながら、誰かから、『おじいちゃん、こんな坂のぼんのやめとき』って言われると、『アホな、坂があるから車乗ってくれるのや。坂なかったら誰も乗ってくれへん』と返す。まさにその通りやないですか。常にユーモアと一途さ、健気さと明るさが彼にはあって、その辺は見習いたいなと思いました。僕らも舞台で、『あ、ピンチや!』と思ったら、『これは、後々笑い話になるんかな』『このつらさを面白がろう』って転換させることがあるんです。ギリギリに追い詰められてしまったら力を発揮できないので、自分を俯瞰で見るようにする。それが人間に与えられた想像力であり、ユーモアなんでしょうね」

 そんな蔵之介さんが毎日自分に注入するガソリンが、お酒。1週間のスケジュールを聞いたときには、「毎日晩酌してます。それは欠かさない」と断言した。

「稽古休みの日は“朝シャン”」というので、昔流行った朝のシャンプーのことかと思いきや、「朝にシャンパン」の略だという。

「稽古休みでも台本は読むので、気合を入れるために、朝シャンを1杯だけ(笑)。2杯、3杯になるとへなちょこになりますから、1杯にとどめておくようにしています。晩酌のお供? お勧めは、スーパーなんかで買ったごく普通のお豆腐に、ちょっと実山椒をのせること。それだけで、全然うまさが違いますよ」

 お酒のこだわりを語りだしたら止まらない。

「この時期、外食なら絶対に食べるのが、花山椒鍋。出汁をはった鍋に牛肉の薄切りを並べて、山椒の花をバーッと入れて食べる、いたってシンプルな鍋なんですが、この時期しか食べられない。毎年、必ず食べたくなりますね。今年は、この前京都で食べられたのでラッキーでした」

 ビールもワインもウイスキーも何でも嗜むが、冬場だけは、実家の日本酒が一番おいしいと感じるらしい。

「出来立ての、蔵出しした生酒を宅配便で送ってもらう。僕にとってのボージョレ・ヌーボー的な儀式です(笑)。それを一杯やる瞬間は至福の時ですね」

 この取材の6日後、舞台の中止が発表になった。織田作之助の「わが町」は、波瀾万丈の人生を送った他吉が亡くなった後、孫の君枝が降るような星空を見上げて終わる。演劇人にとって、芝居を上演できないことほど悲しいことはない。でも、この作品に関わった人たちは、いつか「佐渡島他吉の生涯」を上演できる日が来ることを、今の出来事を笑い話にできる日が来ることを信じている。(菊地陽子 構成/長沢明)

※週刊朝日  2020年5月8‐15日号より抜粋