「これ僕も食べられるの!?」 がん患者の夫に料理研究家が挑んだ介護食革命

「これ僕も食べられるの!?」 がん患者の夫に料理研究家が挑んだ介護食革命

 食べることが何より好きな、料理研究家のクリコさんこと保森千枝さん夫婦。だが2012年、夫のアキオさんを病魔が襲った。口腔(こうくう)底がん。手術で舌の一部を含む口の中の大部分を切除し、残ったのは奥歯一本だけ。下あごにも麻痺(まひ)が残った。



 術後の点滴生活を終え、やっと出された食事は、水のような20倍がゆに、魚のすり身をどろどろにした流動食。1カ月近く続いた点滴で7キロも痩せてしまったアキオさん。たくさん食べて回復してほしいクリコさんの思いとは裏腹に、アキオさんの食は進まなかった。

「どうして食べられないの?」

 夫を責めつつ、自分でも一口味見してみる。見た目以上に、おいしくなかった。さらに、下あごが麻痺しているため、食べるのも容易ではない。スプーンを口に運ぶごとに流し込めているか確認しなくてはならず、1食1時間半近くかかった。

「退院したら、私が3食、おいしいものを食べさせないと」

 クリコさんは使命感に燃えたが、介護食づくりは想像以上に大変だった。病院にアドバイスも求めたが、摂食嚥下(えんげ)の専門家は、「嚥下には問題がないので、軟らかいものなら何でもいいですよ」の一言のみ。書店を探しても、使えそうなレシピ本はほとんどない。市販の介護食も試してはみたが、口に入れた途端、アキオさんは「うっ」と渋い顔。こちらも、頼れそうにない。

 調べるうちに、きゅうりのようにペタペタ張り付くものや、サラサラしすぎるものは胃ではなく気管に入り、詰まってしまう危険性があると知った。その日によって、口の中の状態が変わり、のみ込める硬さが変化することも徐々に分かった。

「そもそも“介護食”という言葉自体、自分で調べて初めて知ったんです。病院は治療が優先で仕方ないのは分かるのですが、もう少し適切なアドバイスをもらえていたら……」

 とクリコさん。安全にのみ込めて、かつ見た目にも食欲がわく、おいしい介護食をつくれないか──試行錯誤の末に生まれたのが、ひき肉に山芋や豆腐、お麩(ふ)などを混ぜて成形した「ふわふわシート肉」だ。味と形を保ちつつ、舌と上あごでつぶせるほど軟らかい。初めは棒棒鶏(バンバンジー)にして食卓に出した。

 アキオさんは「これ、僕も食べられるの?」と半信半疑だったが、口に運ぶなり満面の笑みで、

「クリコ、天才!!」

 このふわふわシートを応用して、焼き肉やトンカツ、エビフライ、エビチリ、グラタン……。どれもアキオさんの大好物だ。メニューを聞いただけでは、およそ介護食とは思えないラインアップに、アキオさんは「これも食べられるの!?」と驚き、「おいしい」と子どものように喜んだ。

 次第にアキオさんの食欲も回復し、肌の血色もよくなった。体重も少しずつ増え、ついには手術前の体重まで戻し、医者を驚かせたほど。一時は会社に復帰できるまでに回復した。その後、口腔底がんの前に患った肺がんが再発し、56歳でこの世を去るまで、クリコさんとの食卓を楽しんだ。

 病気になっても、年老いても、おいしいご飯を当たり前に食べ続けられる。それが、自信になり、生きる気力となっていく。おいしい介護食をつくろう、という取り組みは、徐々に企業にも広がり始めている。

 大阪市中央区の高級鮮魚店「海商」では、歯ぐきでつぶせるほど軟らかい煮魚や簡単にかみ切れる鶏の照り焼きなどを「やわらかシリーズ」として販売。16年の発売開始以来、予想を上回る好評ぶりで、17年度の売り上げは2億円を超える見通しだ。

 開発のきっかけは、客からのある一言だった。以前は店頭でも人気が高かったアワビの売り上げが落ちていた。ある高齢の客に理由を聞いてみると、

「昔はよく買っていたけれど、最近は硬くてかみ切れなくて」

 咀嚼(そしゃく)力が弱った人にも、おいしく食べてもらえないか。15年、「やわらかシリーズ」の開発が始まった。

 こだわったのは、ここでも「おいしさ」だ。軟らかくするには、熱や圧力、酵素などを用いるが、煮魚の場合、酵素を使うと匂いが残ってしまう。ただ、熱や圧力で軟らかくするにしても、魚によって硬さが異なり、時間をかけすぎると魚らしい食感が残らない。試行錯誤を重ね、おいしさと軟らかさのバランスを模索し続けたという。

 開発に当たり、医療や介護の専門家にもヒアリングした。すると、普通食が食べられなくなって、介護食に移行すると、「おいしくない」と食べる楽しみを失い、食が細くなってしまう人が多いと分かった。同社の高光朋子さんは言う。

「かむ力が弱くなった人にも、今まで食べていた普通食と変わらない、ごく当たり前のご飯を食べてほしい、と思ったんです」

 夫を介護中の高齢女性からこんな喜びの電話をもらったことがある。夫は普段は流動食を食べていたが、やわらかシリーズの煮魚を夫婦二人で食べた。

「久しぶりに、夫婦で一緒に、同じご飯が食べられました」

 介護される側はどうしても特別メニューになってしまい、疎外感を感じてしまう。それが食べる楽しみを奪うことにもつながっていたのだ。

「子どもから高齢者まで、家族が皆で一緒に、『おいしいね』と食べていただけるような商品を目指しています」(高光さん)

 前出のクリコさんも、夫と同じメニューを、一緒に食べることを大事にしていた。大切な人と食卓を囲み、「おいしいね」と言い合える。当たり前のように思えるその幸せが、命をつなぐ糧になっているのだ。

(編集部・市岡ひかり)

※AERA 2018年2月12日号

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