『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は2020年の大河ドラマでも話題の明智光秀を「診断」する。

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 中国(六朝時代)の古典『小品方(陳延之)』に「上医は国を医し、中医は(民)人を医し、下医は病を医す」という言葉がある。後半は19世紀カナダの名医ウィリアム・オスラー卿の名言「良き医師は病気を治療し、 最良の医師は病気を持つ患者を治療する」と完全に一致する。

 問題は最初の上医の治療対象である。字義どおり、国や地方の衛生行政に取り組んだり、さらに革命家や政治家になった医師も少なくない。わが国では古くは橋本綱常に長与専斎、そして後藤新平が思い浮かぶ。外国では、第一次世界大戦期にフランス首相を務めたジョルジュ・クレマンソーやキューバ革命にかかわったチェ・ゲバラ、古くは18世紀デンマークで啓蒙主義改革の途中で王妃との不倫の汚名を着せられて門閥貴族に処刑されたヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセなどは、日々の医業から社会を変えることに使命感が移っていったのだと思う。

■医師 明智光秀

 2020年に大河ドラマで取り上げられる戦国の武将・明智光秀も、この系列の人であったようである。新進気鋭の歴史学者・早島大佑氏は、その著書『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人になったか』(NHK出版新書)で、光秀が織田家の家臣となる前、医学知識を生かして生計を立てていたのではないかという説を述べておられる。確かに、友人や家臣にあてた彼の書簡や、当時の名医であった施薬院全宗、典薬入道・丹波頼景との親しい交流から彼の深い医学知識を伺うことができる。

 ただ、彼自身の診療録や誰かが彼に治療を受けたという記録もないことから、彼が医師として生計を立てていた時期があるかどうかは明らかではない。もちろん、医師国家試験もなければ専門医資格もない時代であるから、何をもって医師とするかは定義が難しい。同氏の著書や、やはり最近刊行された金子拓氏の『信長家臣 明智光秀』(平凡社新書)を読むと、光秀が非常に学識深く、幕府や朝廷、社寺との関連で的確かつ論理的な裁定を下し、また家臣や同僚への手紙で、相手やその家族の身体の具合のことも含めた細やかな気づかいをする人物であったことが伺われる。

 では、どうして織田家臣団の中でも羽柴秀吉と並んでもっとも信長の信頼が厚く、大軍を任された光秀が主君を弑逆するに至ったか。

 鞆の浦に逃れた足利義昭の使嗾(しそう)とか、朝廷と近衛前嗣(前久)の陰謀とか、イエズス会の陰謀とか、果ては羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康の共謀とか珍説奇説は様々だが、筆者には比叡山延暦寺の焼き討ちや伊勢長嶋の一向宗徒の大虐殺など、中世の秩序を壊すためとはいえあまりに人を殺しすぎた信長への反感があったのではないかと思う。

■信長への反感からの「敵は本能寺」

  16世紀はヨーロッパでは宗教戦争で非常に多くの人々が生命を失っているが、わが国ではここまで徹底した大量殺戮を行ったのは信長だけである。我々医師は、学部学生のころから医師の使命は一にも二にも、「人の生命を保全し、苦痛を除くこと」というヒポクラテス以来の倫理を叩き込まれる。20世紀においてもナチスドイツのホロコーストや、毛沢東の文化革命、ポル・ポトの虐殺に異を唱えて、処刑された医師も少なくないと聞く。

 光秀が実際に医業に携わったかどうかはわからない。だが、あまりに人を殺しすぎる信長への反感から「敵は本能寺」と叫んだのではあるまいか。

 信長が少数の供を率いて守りの弱い京都の本能寺に宿泊し、麾下(きか)の軍団が日本中に展開して、手元には自分しかいないという得難いチャンス(彼にとって)を生かすことによって目的を達成できたわけである。そこのところに科学者とも共通する冷徹な視線をうかがうことができる。

 ただ、大量殺人者を除外するために自分が殺人を行うというのは大矛盾であるし、何よりも主君の寝こみを襲うというのは、いかにも後味が悪い。同じ反旗を翻すにしても荒木村重や松永久秀のように自分の城に立て籠もったほうが、後世の評価は高かったであろう。もっともこれでは、信長殺害という当初の目的を達成できなかったかもしれないが。

○早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など

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