新橋停車場で清に見送られ四国へ旅立つ『坊っちゃん』。九州から上京する汽車の中で「亡びるね」と予言される『三四郎』。『心』の「私」は、危篤の父をおいて、列車に飛び乗り先生の遺書を読む。



 鉄道は漱石の小説の重要なモチーフだ。漱石自身も全国各地、外国でも、列車に揺られ、旅を重ねた。その漱石が最も多く訪ねたのは京都だった。漱石はどこを訪れ、何を見ていたのだろう。

『漱石と鉄道』(朝日選書)で、漱石の生涯や作品と、明治以後に急速に発達した鉄道との関係を詳しく述べた著者牧村健一郎氏が、漱石が見た京都を紹介する。

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■京都好きだった文豪

 漱石は元祖京都フリークでした。生涯に4度も京都を訪ねています。都合50日余、教師として赴任した松山、熊本、留学先のロンドンを除き、最も長く滞在した町でした。ほとんどの名所旧跡に足を運んでいます。

 最初は20代の学生時代、親友の子規とともに京都の町を歩いています(1892年)。2回目は教師を辞めて朝日新聞に入社を決めた直後の春で、いわば「漱石の春休み」(1907年)。最初の新聞小説『虞美人草』の題材集めの旅にもなりました。比叡山登山、保津川下りは『虞美人草』に生かされます。清水寺、南禅寺、銀閣寺、平安神宮など精力的に見て回ります。都おどりも見物しました。次は満韓旅行の帰りに神護寺、高山寺に立ち寄っています(1909年)。最後は亡くなる前年の春で、木屋町の宿に落ち着き、開通したばかりの京阪電車・宇治線で宇治・万福寺を訪ねています。ただ、持病の胃潰瘍が悪化、鏡子夫人が迎えに来ています(1915年)。いずれも行き帰りは鉄道です。

■観光で巻き返しを図った京都

 漱石が訪ねた明治から大正にかけて、京都は自己変革、変身の真っ最中でした。

 明治維新で天皇が東京に移り、京都は千年続いた首都の地位を失い、自らの立ち位置に苦慮します。幕末の5年間、京都は政争の中心地だっただけに、喪失感はひとしおだったことでしょう。平安遷都でにわかに衰えた奈良を教訓に「第二の奈良になるな」と京都は巻き返しを図ります。近代化するとともに、観光都市、文教都市への転身です。

 漱石も見た「都おどり」は、その流れにあります。もとは座敷芸だった京舞を、芝居小屋で客に見せる大仕掛けに変えたのは、1872年の京都博覧会のときでした。平安遷都千百年記念祭(1895年)で、平安神宮が造営されました。京都三大祭の一つとされる時代祭も、このとき創出されました。伝統ある祇園祭などと異なり、信長上洛などを仮装行列で演じる祭で、明らかに観光客目当てです。

「漱石の春休み」のときには、保津川下りも楽しんでいます。急流で知られる保津川は、古くから丹波の木材をいかだに組んで京都に運ぶ舟運で栄えていましたが、明治半ば以降は川下りのレジャーとして注目され、漱石が乗船した同じ年の1907年、保津川遊船株式会社が設立されています。物資輸送から観光船へシフトする時期だったのです。漱石も遊んだ嵐山の近くに鉄道駅(嵯峨駅)ができたのは1897年、嵐電嵐山駅(当時は嵯峨停車場前駅)は1910年です。こちらも江戸期から文人墨客に親しまれた地でしたが、鉄道が通じ、一般の観光客が気軽に行けるようになりました。

■ユニークな京都の近代化

 営業運転の路面電車が日本で初めて走ったのは、じつは京都でした。内国勧業博覧会(1895年)の京都開催に合わせ、七条から伏見まで、米国製の電車が運転されました。東京より8年も早い開通です。電力は、京都近代化を代表する琵琶湖疏水事業による水力発電です。漱石は大津側から舟で琵琶湖疏水の水路を蹴上まで下っています。今も蹴上にインクライン(傾斜鉄道)が保存され、南禅寺境内に水路閣が残っています。

 日本最初の小学校(1869年)も京都でした。同志社英語学校(同志社大学の前身、1975年)開設、第三高等中学校京都移転(1889年)、京都帝国大学開設(1897年)が続き、文教都市京都が誕生します。漱石が「春休み」のときに泊ったのは、当時京都帝大文科大学学長だった親友の狩野亨吉の家でした。

 最初の京都訪問時は、汽車で新橋から約17時間かかったとみられます。最後の京都行きは新設された東京駅から乗車、11時間半ほどでした。起点が新橋と東京で違うので正確ではありませんが、明治中期から大正初めにかけての23年間で、東京・京都間はほぼ5時間半、早まったことになります。この大幅な時間短縮は、猛スピードで近代化した日本を象徴するともいえましょう。(ジャーナリスト・牧村健一郎)

牧村健一郎
1951年神奈川県生まれ。ジャーナリスト。漱石にまつわる著書に『新聞記者夏目漱石』(平凡社新書)、『旅する漱石先生』(小学館)などがある。