1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回に続き夏休み特別編として、諸河さんが半世紀前の学生時代に撮影した各地の路面電車の風景をお届けする。特別編の第2回は、東北地方で50年ほど前まで活躍した花巻電鉄鉛線、仙台市交通局、秋田市交通局、福島交通軌道線の路面電車にスポットを当てた。



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 東北の夏も、暑い。

 本来ならこの時期、東北地方にも旅行客や帰省者が集まっているはずだが、今年はいまいましい新型コロナウイルスの影響でなかなか外出ができない。せめて往時の作品から、みちのくの路面電車の風情をお楽しみいただきたい。

■花巻電鉄名物「馬面電車」

  冒頭写真は岩手県花巻市。花巻電鉄名物「馬面電車」の愛称で知られるデハ3が花巻駅で休むシーンだ。読んで字のごとく、「ウマヅラ」が関係する。

 国鉄(現JR)花巻駅に接続する花巻と西鉛温泉18000mを結ぶ花巻電鉄鉛線は、軌間762mmの軽便路面電車として無二の存在だった。しかもトロリーポールによる集電だったので、軽便鉄道と路面電車双方の愛好者からは垂涎の存在だった。ちなみに、電車線電圧は600Vだった。

 豊沢川に沿った狭隘な田舎道に敷設されたため、車体の最大幅が1.6mという制限が設けられた。さらに、車体の前後はカーブを通過する制約からより狭くなっているのと、正面を3枚窓にしたため細長い馬の顔を連想させる面相になってしまった。膝を突き合わせるようなロングシートの車内は、座席定員の28名に加えて、用意された吊革を使用する立席定員が22名で、合計50名の乗車定員だった。実際にこれほど乗れたのか、今になって疑問が生じてくる。
 製造所は軽便用車両を得意とした雨宮製作所で、1931年に製造されている。このデハ1型は3両が在籍し、他に木造車体の1927年製デハ5型も在籍した。1960年頃から沿線の道路拡幅改修が進み、車体幅2.13mの花巻温泉線(花巻〜花巻温泉 8200m)用の車両が転入して、「馬面」の一党は予備役となってしまった。写真のデハ3の後ろに広幅車体の旧花巻温泉線用のデハ3が写っており、同じ画面に2両のデハ3が記録されていた。
 
 次のカットは茅葺屋根の南部田舎家の軒をかすめて花巻に向かう鉛線の電車を120サイズのエクタクロームハイスピードカラーポジフィルム(ISO160)で撮影した一コマ。既に道路は舗装拡幅改修を終えており、鉛温泉方面の路線バスが颯爽と走り去った。この撮影から数カ月を経た1969年9月、軽便路面電車の鉛線に終焉が訪れた。

■秋田市電は本州最北端の公営路面電車

 秋田の冒頭写真は、久保田城の濠端に沿った広小路を走る土崎行き秋田市電。駅前に続く広小路は朝の通勤者で賑わい、道路右端にはモノコック構造の「スバル360」軽自動車が写っている。金太郎腹掛け塗装が似合う200型は1959年日本車輛製で、秋田市電最後の新車だった。1966年の秋田市電廃止後は岡山電気軌道に譲渡され、1981年の車体更新まで活躍した。

 1889年、秋田馬車鉄道が秋田〜土崎に開業した軌間1391mmの馬車鉄道が、秋田市電のルーツである。その後、秋田電気軌道によって1067mmに改軌・電化して、秋田市内に路面電車が走り始めた。戦前の秋田市内線撤去や戦時中の市営化などの紆余曲折を経て、1951年に秋田市交通局が市内線を再建して、秋田駅前〜土崎の直通運転が始まった。
 秋田市電は全線単線で敷設され、営業距離7300m、電車線電圧は600V。旧本線だった新大工町線500mも存在したが、1959年に廃止されている。

 次のカットは表鉄砲町から土崎市内まで続く田園の中の専用軌道を走る土崎行き秋田市電。夕方の多客対応で出庫した旧東京都電150型(元王子電軌)の再生車である30型を撮影することができた。
■杜の都の仙台市電

 仙台の冒頭写真は、国鉄(現JR)仙台駅前を走る10系統の原町駅前行き仙台市電だ。仙台駅前は創業以来のセンターポール区間で、来訪者の市電駅前撮影は必須だった。写真の100型は仙台市電初のボギー車として1948年から製造された車両で、24両の所帯は仙台市電の主力だった。このモハ123は1991年に地下鉄富沢車両基地内に開館した「仙台市電保存館」に保存された幸運な車両だ。

 仙台市による公営の路面電車は1926年に開業している。軌間は1067mmで電車線電圧は600Vだった。当初、仙台駅前〜大町一丁目と仙台駅前〜荒町の計3300mに2系統の電車が運行された。1928年の循環線開通や1948年の原町線(はらのまちせん)全通、1954年の全線複線化完成など仙台市電は最盛期を迎え、営業距離は16000mに及んだ。また、営業距離の短い割には運転系統数が16と群を抜いており、循環系統をメインにした頻繁な運行が実施されていた。
 次のカットは4系統北仙台駅前循環に充当された仙台市電で、撮影した裁判所前停留所は開通当初狐小路と呼ばれていた。写真の400型は、その外観から仙台版都電8000型と呼ばれた。1959年から市電の将来を見越した不燃軽量化・コスダウン構造で製造が始まり、1963年までに15両が製造された。最終増備のモハ415が件の「仙台市電保存館」に保存されている。

■福島交通軌道線は偉大なる田舎路面電車

 福島の冒頭写真は、砂埃を舞い上げて飯坂東線の泥軌道を走る梁川行きの電車。訪問時には福島市内や一部町内の道路は舗装されていたが、それ以外は未舗装の田舎道だった。軌道が敷設された道路幅が狭いため、福島でも車体幅1.676mの準「馬面電車」が活躍していた。町と農村を繋ぐインターバンのような役割を担っており、往時の農作物の出荷には貨物列車も運行され、田舎路面電車の面目が躍如されていた。

 福島交通軌道線は、国鉄(現JR)福島駅前を起点にした飯坂東線(いいざかひがしせん)に保原線、梁川線(やながわせん)、掛田線の三線を加えた31500mの路線網を福島盆地に構築していた。

 福島交通軌道線の出自は、1908年に設立された信達軌道が蒸気動力・762mm軌間の軽便鉄道を福島駅前〜十綱(後年飯坂→湯野町に改称)に開業したことに始まる。大正期に軽便軌道を各方面に延伸した。社名を福島電気鉄道に変更後、1926年から全線の1067mmへの改軌と電化工事に着手する。ちなみに、福島電気鉄道に路面電車が走り始めたのは、前述の福島駅前〜飯坂で、電車線電圧は750Vだった。また、1962年からは社名を福島交通に改名している。
 最後のカットは福島駅前の目抜き通りを走る飯坂東線の福島駅前行きの電車。目抜き通りといっても、軌道の両脇に1車線確保がやっとの狭さだった。福島交通の電車は昔ながらの救助網を常備しており、救助網に自転車を乗せて走る微笑ましい光景も展開された。

 モータリゼーションによる輸送量衰退に対応する合理化で、筆者が訪問した1967年9月から一部の路線廃止が始まった。4年後の1971年4月に全線が廃止され、偉大なる田舎路面電車は追憶の彼方に消え去った。

■撮影:1969年5月5日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

※AERAオンライン限定記事