半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。



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■横尾忠則「極楽トンボでコロナと共生共存しよう」

 セトウチさん

 2021年が明けましたね。顔面は如何ですか。もうすっきりされたと思いますが? 僕は数年前、顔面神経麻痺(まひ)になってあわや福笑い顔になるところでした。その少し前に描いた自画像は目鼻口がキュビズムみたいにデタラメに付いた絵でした。そしてその通りになりました。想念は一度四次元を通過して三次元に物質現象となって現れます。だからデタラメの想像は危険です。ですから、セトウチさんもスッキリした美人顔を過去完了形で想念して下さい。必ず想(おも)い通りになります。

 コロナは最低最悪ですが、日夜このことを思念すると、相手のコロナはますます、増長します。無視しましょう。と言う僕はムチャクチャの絵を描いています。画家に転向した時ムチャクチャからスタートして、少し見れる絵を描いたら、それに飽きて、またムチャクチャの絵にマッシグラです。ガキの描いた絵のような色も形もテーマもテクニックも全てデタラメを目指しています。というか身体が言うことをきかないので、その言うことのきかない身体にまかせた結果がムチャクチャというわけです。

 と、そんな風に居直ったら、ええ絵を描こうという気が抜けてしまったので気分爽快です。最初から腐(くさ)される絵を目的にしているので気が楽になりました。このまま子供になってしまいたいですね。意欲、好奇心、努力、やる気、評価、ガンバリをはずすと、なんと楽なことでしょう。アホになったのか悟ったのかその境界がない状態です。そのアホ悟り作品が今年は名古屋、大分、東京を巡回します。2022年は上海の現代美術館での個展が控えています。東京ではうんと下手くそな新作20点も発表します。

 セトウチさんの百歳目前も驚きますが、僕はもう歳を忘れることにしました。セトウチさんとは競えませんからね。もう、歳のこと言わんことにしました。死ぬ時は何歳で死んでも百歳だと思いましょう。魂がこの世に肉体化した時から数えると、46億年です。地球とどっこいどっこいの年齢です。そう思えば、肉体年齢はあってないようなものです。人間は肉体年齢にしばられているから、年齢を気にするんです。だから、逆にそこに芸術が発生するのかも知れませんねえ。芸術の発生のために人間には年齢が必要なのかも知れませんが、死んだら人間の作った芸術なんて、ちっぽけなもので、死者から見ればどうでもええことだと思いますよ。

 まして、世の中の出来事を白黒で論じようとしていることが、何ほどの役に立つんですかね。死んだ時に問われるのはそのような思想や理屈ではなく、自分がどう生きたかという小さい問題が意外と向こうでは大きい問題として評価されるんじゃないでしょうか。ダンテの『神曲』でダンテが、地獄、煉獄(れんごく)を旅させられながら巡る時、生前、社会的に功績を残した人が、意外と自分のエゴで地獄のどん底で苦しめられていたりしているけれど、あれが比喩だとしても笑えないリアリティがありますよね。と考えると、今年もコロナと共生共存しながら、ほどほどに生きていければ、よしとするしかないんじゃないでしょうか。となるとラテン的極楽トンボで生きたいと思います。今日はこの辺で。

■瀬戸内寂聴「百になってみてごらんなさい いい気持よ」

 ヨコオさん

 新しい年が明け、早くも一か月が過ぎようとしています。京都は今年は無闇(むやみ)に寒くて、朝、庭が雪で真白(まっしろ)になっている日が多いです。

 奥嵯峨と呼ばれるこのあたりの寒気はきつく、数え百歳の年寄には、さすがに応えます。今年に入って、私は二言目には「百になったから…」を口癖にしています。大正十一年、千九百二十二年生まれの私は、今年数えで百歳になったのですよ。まさかね、私が百歳なんて!!

 うちのスタッフたちは、私の新語にすでに馴(な)れきって、私がそれを口実に、仕事を遅らせたり、昼過ぎまで起きなかったりしても、「ハイ! 百婆さん、そこに居たら掃除の邪魔になります」と、電気掃除機の柄を容赦なく、私目掛けて掃きつけてきます。

 編集者も、もはや原稿の遅れの理由に、「何しろ、百になったからねえ…」と言いかけても、聞(きこ)えなかったふりをして、冷たいさいそくの口調をゆるめたりはしてくれません。百歳なんて、この地球では、もう珍しい出来事ではなくなっています。新聞の死亡通知に、故人の年齢が百いくつとあっても、「あ、そう」と、口の中でつぶやきもしません。

 でも、まあ、百になってみてごらんなさい。ちょっと、いい気持(きもち)ですよ!!

 私はもう、これから死んでも、百いくつと逢(あ)う人ごとに言うつもりです。

 ところで、この往復書簡はよくつづきますね。天才の気まぐれのヨコオさんがつづけるのも不思議なら、飽きっぽい代表選手の私が、黙々とつづけているのも、もっと不思議です。

 今年こそヨコオさんに倣って日記をつけようと大決心をしたのに、一日だけ長々書いて、二日からは、頁(ページ)は真白です。この飽きっぽさ名人の私が、原稿を書くことだけは、七十年近くつづいているのが不思議です。大人になったら小説家になろうとは、誰にすすめられたわけでなく、小学校の二年生あたりから、はっきり決めていました。

 その頃の小学校は、二年生から「綴(つづ)り方」の時間があったのです。私は「綴り方」が大好きで、いつも、先生が私の綴り方をほめてくれていました。この先生がお産で学校を休み、代(かわ)りにどこかの若い先生が来るようになりました。

 この先生は、私の綴り方を見たとたん、私を教員室に呼びつけて、どの本から、この文章を盗んできたかと叱りつけました。こんなりっぱな文章が、二年生のお前に書ける筈(はず)はないと責めるのです。私は泣きだして教員室を飛び出し、走って五、六分のわが家に駆け込み、口惜しさを泣いて母に訴えました。聞き終わるなり、母は割烹着(かっぽうぎ)をつけたまま、私の手を取って小学校へ走り、教員室で若い先生に噛(か)みつきました。「うちの子は生(うま)れつき文才に恵まれて、こんな綴り方くらいお茶の子さいさい。将来は小説家になるつもりでいる」とわめく母を見て、私の将来は決(きま)りました。この母が生れつきそそっかしくて、徳島が空襲された時、日本はもう負けたと、早合点して、防空壕(ごう)から出ず、五十一歳で焼死してしまったのです。近くあの世で逢ったら、「百まで生きるなんて、何と不細工な!!」と笑われることでしょう。はい、では、またね。

※週刊朝日  2021年1月29日号