球団別『平成最高の4番』を選んでみた【セ・リーグ編】

球団別『平成最高の4番』を選んでみた【セ・リーグ編】

 今年の5月から年号が平成から令和へと移り変わった。令和最初となるプロ野球のシーズンもあっという間に終盤に差し掛かり、新年号になって初めてリーグ制覇を果たすチームはどこなのか? 首位打者には誰がなるのか? など、“令和初”の称号を手にするチームや選手に注目が集まるが、平成のプロ野球の記憶も未だ鮮明に残っている。そこで、今回は各チームで平成に最も活躍した4番打者を振り返ってみたいと思う。今回はセ・リーグ編。(※打順は回数や打席数をもとに算出)



*  *  *

■巨人:松井秀喜

 基本的には、落合博満や清原和博といった大打者の前を打つ3番打者として活躍したが、2000年(平成12年)からヤンキースに移籍する前の2002年(平成14年)まで4番打者を務め、圧倒的な存在感を示した。特に巨人最後の年となった2002年には打率.334(リーグ2位)、50本塁打(リーグ1位)、107打点(リーグ1位)と三冠王まであと一歩のところまで迫り、セ・リーグのMVPを獲得。チームの日本一にも大きく貢献した。186cm、95kgの日本人離れした体格で相手投手を威圧する姿は、伝統ある巨人の4番にふさわしく、当時にワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開催されていれば、多くのファンが侍ジャパンの4番に推したであろう。

 他では生え抜きの阿部慎之助が6シーズン、ヤクルトから移籍のラミレスが4シーズンに渡って任され、平成の序盤は現在チームの監督である“若大将”原辰徳が務めた巨人の4番。名だたる打者がずらりと並ぶが、成績、人気、カリスマ性、どれをとってもトップクラスの松井を推したい。

■阪神:金本知憲

 1991年(平成3年)からオマリーが4シーズン務め、その後は助っ人外国人を中心に毎年入れ替わり、なかなか固定できずにいた阪神の4番。だが、星野仙一監督の就任2年目となった2003年(平成15年)に広島から加入した金本知憲が、その状況に終止符を打った。金本は移籍初年度こそ、主に3番打者として試合に出場したが、翌年の2004年(平成16年)から不動の4番として活躍。2005年(平成17年)には打率.327(リーグ3位)、自己最多となる40本塁打(リーグ2位)、125打点(リーグ2位)で2003年に続くリーグ制覇の大きな原動力となった。成績もさることながら、左手首を骨折しながら試合に出場してヒットを放つなど、精神的な部分でもまさにチームを引っ張る4番という感じだった。

 金本の後には、同じく広島から移籍の新井貴浩が3シーズン任された平成の阪神の4番は、移籍してきた選手や、助っ人外国人が主に任された。金本もその一人だが、“アニキ”とファンに親しまれ、プロ野球全選手の中でも、平成の時代に最も4番に座った金本より適格な選手は見当たらない。

■中日:ウッズ

 1997年(平成9年)から2002年(平成14年)まで、6シーズン任されたゴメスが平成の時代に最も長く4番に座った打者だが、最もインパクトに残るのはウッズだ。チームが“黄金時代”を迎える落合博満監督時代の2005年(平成17年)に横浜からの移籍で加入すると、在籍した4年間すべての年で4番に座り、35本塁打以上をマーク。2006年には中日の球団記録となる47本塁打、144打点で二冠王に輝き、リーグ優勝に貢献した。リーグ制覇を決めた10月10日の巨人戦では延長12回に決勝満塁弾を放ち、試合中は常にポーカーフェイスを崩さない落合監督を涙させたのは、“ドラ党”には忘れられないシーンの一つだろう。

 ウッズが活躍した時代の監督だった落合氏も、昭和の時代からチームの4番を任され、平成の時代に入ってからも5シーズンにわたって務めた大打者の一人だ。ある一定の世代の人間は、中日の4番というと落合氏を思い浮かべる人も多いだろうが、チームの黄金時代の真っただ中で、安定した活躍を続けたウッズを選出した。

■広島:江藤智

 昭和の時代にカープの4番を長らく務めた山本浩二監督時代の1993年(平成5年)から巨人に移籍する前の1999年(平成11年)まで広島の4番を打った江藤智。当時の広島は金本知憲、前田智徳ら強打者ぞろいだったが、その中でもこれぞ大砲という佇まいから、ホームランを量産する姿は今も印象深い。1993年に34本のアーチを描き、初めて本塁打王に輝くと、1995年(平成7年)には39本塁打、106打点を記録し二冠王を獲得。その年には14盗塁を記録するなど、長距離だけではないところも見せた。

 比較的助っ人に4番を任せる球団が多い中、広島は江藤の去った後、金本、新井貴浩、 栗原健太、ここ数年は鈴木誠也が座るなど、自前の選手で4番を賄ってきた歴史のある球団だ。甲乙つけがたい好打者が多いが、勝てずに苦しんだ時代もチームをけん引し続けた江藤の功績を評価したい。

■横浜:村田修一

 パチョレック、ブラッグス、ローズなど外国人助っ人が平成の序盤から4番を任されてきた横浜だが、2006年(平成18年)から村田修一が“和製大砲”としてその座に長く君臨した。2011年(平成23年)のオフにDeNAに買収され、今は人気チームのイメージがあるが、村田が在籍した時代はチームの成績や、人気ともに“暗黒時代”と呼ばれておかしくないものだった。そんな中でも存在感を示したのが村田で、36本塁打を放った2007年(平成19年)と、46本塁打の2008年(平成20年)に2年連続でホームラン王を獲得。打点も2006年(平成18年)から3年連続で100打点超えを記録した。吉村裕基との“大砲コンビ”は相手チームにとって脅威的だった。

 近年では村田と同様に、日本を代表とするスラッガーに成長した筒香嘉智が4番を任されている横浜だが、“松坂世代”のスラッガーで、ファンには「男・村田」の愛称で愛された大砲をここでは選出したい。

■ヤクルト:バレンティン

 広沢克己、畠山和洋を除いては、ほぼ外国人助っ人が代わる代わる4番を任されてきたヤクルト。助っ人の補強が“大の得意”である球団らしく、オマリー、ペタジーニ、ラミレスと、日本プロ野球史に残る優良な外国人選手が並ぶが、バレンティンの存在はその中でも頭一つ抜けている。メジャーリーグでも未来の大砲として将来を嘱望されたバレンティンは、来日初年度から2年連続でホームランキングの称号を手にすると、入団3年目の2013年(平成25年)には王貞治らが持つシーズン最多の本塁打記録を塗り替える60本のホームランを量産した。NPB史上5人目となる3年連続のタイトルを獲得し、長打率の.779も史上最高の記録となった。

 過去に4番を務めた広沢、ペタジーニ、ラミレスはヤクルトで活躍したのち、リーグのライバルでもある巨人に移籍。バレンティンも移籍の噂などは度々出たが、平成の終盤からチーム一筋で4番に長く座ったのも評価の対象とした。






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