2020年東京五輪の開会式まで約5カ月、聖火リレーまで約1カ月となった。08年北京五輪で日本競泳史上初の2大会連続2冠を達成した北島康介さん(37)に、五輪とはどんな大会だったのかを聞いた。



──記憶に残っている最初の五輪は?

 小4の夏、10歳になる前に見たバルセロナ大会(1992年)です。選手は必ず五輪を意識する瞬間ってあると思うんです。五輪選手ってすごいなあというあこがれから、なりたいという夢を抱いて頑張るようになる。自分にとって、そのきっかけになったのが、バルセロナ五輪でした。

──96年アトランタ五輪終了後、東京スイミングセンターで平井伯昌コーチの指導を受け始めます。

 中2でした。平井先生から「オリンピックに行きたいか」と言われて、自分の中では簡単じゃないと思っていましたが、一緒になって先導してくれるコーチと出会えたことが、僕の水泳人生を大きく変えました。いい指導者に巡り合えたことは、奇跡のようなものに思えます。
 練習はきつくて、コーチに対する反発心もなくはなかった。それでも成績が上がって、平井先生の言っていることを聞けば俺は必ずもっと強くなれる、という忠誠心のような気持ちも生まれてきました。

──高3の2000年日本選手権で100メートル平泳ぎに初優勝して、シドニー五輪出場を決めました。

 すごくうれしかったですね。こんなに短期間で夢をつかむことができるんだって。感じたことのない緊張感もあって、(シドニー五輪の)100メートルの予選では、手が震えてキャップがなかなかかぶれなかった。それが思い出ですね、そんな自分がいるんだ、と。スタートもミスるし(笑)。

──100メートルは準決勝で日本新を出して、決勝は4位でした。

 世界との距離が明確になった大会でした。メダルが取れなかった悔しさがあったからこそ、次は絶対にメダルを取る、という強い気持ちが生まれました。

──ここから一気に世界のトップに駆け上がります。01年福岡世界選手権の200メートルで銅メダル、02年釜山アジア大会の200メートルで初めて世界新を出して、03年バルセロナ世界選手権で100メートルと200メートルの2冠のときは、ともに世界新という快挙でした。

 平井先生は「もっとできる」と、本当に限界を決めなかった。100メートルのパワー勝負と200メートルの持久力的なレースの両方で勝てたのは、それが大きかったと思いますね。この時期に(ウェートトレーニングや泳法分析など)「チーム北島」と呼ばれる専門家の支援体制ができました。肉体改造にも取り組んで、痛みが出たりトレーニングの時に違和感を覚えたりしたこともあったのですが、筋力アップに合わせて泳ぎ方を改良しながら記録を上げていきました。

──04年アテネ五輪の100メートル、200メートルで2冠を果たします。

 今振り返ると、泳ぎは未完成でした。力とパワーを水の中で十分に生かすことができていなかったし、うまく頭と体が3次元的にリンクしていなかったというのは確かです。

──100メートルに勝利した後、ペン記者の取材エリアに来た時には涙が止まらない状態でしたね。その直前、テレビ取材で「チョー気持ちいい」と言った時も涙をこらえていた?

 間違いなくそうです。言いながら、半ばちょっと泣いてますからね(笑)。会場にいたチームの仲間や記者のみなさんからも金メダルを期待されていた。あの時の担当記者、ドライじゃないんですよ。北島ならなんとかしてくれる、一緒に歩みたいという方ばかりで、取材をめぐって平井先生と本気でけんかするし(笑)。周囲の人はだれもが金を取らせたいと思ってくれて、それは僕が一番感じていたから、金を取って自分もうれしかったけど、周りの人がよろこんでくれるのを肌で感じて、やっぱりうれしくて、泣きましたよね。

──08年北京大会では日本競泳史上初の五輪2大会連続2冠を達成しました。

 アテネの時よりも絶対的な自信がありました。海外のライバルが変わっていく中で勝てたというのは大きかったですね。強い思いでアテネ五輪の金を取った後、自分自身がどうあるべきかというのを自問自答した瞬間もありました。その中で改めて指導者に平井先生を選んでタッグを組めたこと、「お前なら必ず金メダルが取れる」と信じて支えてくれた周りの人がいたからこそ、結果を出すことができたと思います。

──100メートルは大接戦。平井コーチから「勇気を持って、ゆっくり行け」という助言を受けます。大きなストロークで自分の泳ぎに徹しろ、という意味ですね。

 あの一言で、肩がすっと落ちました。体と脳がうまくリンクして、完璧に制御できました。自分のベストレースです。言葉の力って大きい。一つの言葉で泳ぎが変わった。自分で思い描いてイメージトレーニングしても、あの泳ぎはできなかったと思います。

──100メートルで勝った後の言葉が「何も言えねえ」。

 ワードでも切り取られる選手になったんだなって思いました。何も言えねえ、ですから(笑)。期待してくれていた人が多くて、ワードを待ってくれていた人がいたわけですから、選手冥利につきますよね。

──ついに20年東京五輪を迎えます。

 東京で生まれ育った一人のオリンピアンとして、誰しもが憧れる祭典が自分の地元に来るのは、うれしいですね。ドーピング問題など克服すべき課題はありますが、世界中が注目して、一緒に笑ったり泣いたりできる。スポーツの感動を世界で共有できるのが五輪の魅力だと思います。

──今回は報道する立場になりました。

 選手だったからこそわかることを伝えたい。昨年のラグビー・ワールドカップによって「ONE TEAM」という言葉がはやったように、チーム・ジャパンとして世界とどう勝負するか。もっと広くいえば、日本が開催国として海外の人たちをどう受け入れるかという課題もあります。日本全体がチーム一丸となって五輪を迎えられたら、と思います。

 インタビューの詳細は2月14日発売の「週刊朝日増刊 東京2020オリンピック読本」で掲載されている。(本誌・堀井正明、秦正理)

*週刊朝日オンライン限定記事