50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、突然患った大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。2月2日に迎えた70歳という節目の年に、いま天龍さんが伝えたいことは? 今回は「運」をテーマに、飄々と明るくつれづれに語ります。



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 運がいい人と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、ジャイアント馬場さんだね。馬場さんは読売巨人軍でプロ野球選手としてやっていたけど、ケガで辞めざるを得なかった。でも、力道山関からプロレスの世界にスカウトされて、アメリカ修業時代には大きな日本人として注目されてね。浴衣と下駄でニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを練り歩いて人気を得た。日本でもスター選手で、自分の団体まで持って成功させているからね。

 プロレス取材で大勢のスポーツ記者が来ていたけど、馬場さんが巨人で投げていた姿を実際に見たことがあるのは一人くらいしかいなかったなぁ。プロ野球よりもプロレスで大成したのも強運だよね。それに、プロ野球の「名球会」の面々がよくハワイに行っていて、馬場さんもハワイが好きだから偶然一緒になるんだけど、プロ野球でものすごい実績のある選手たちも、馬場さんに対してはすごく敬意をもって接していて、それも馬場さんにとっては気持ちよかったと思うよ。名球会の人たちもプロ野球から違う世界で成功した人として尊敬してくれていたんだろうね。

 楽ちゃん(6代目三遊亭円楽)との交友が始まったきっかけも馬場さんだ。楽ちゃんと馬場さんは麻雀仲間でね、楽ちゃんが二つ目時代に独演会に馬場さんが誘われていたんだ。でも、馬場さんは「天龍は(楽ちゃんと)中学の同級生だろう。お前が行ってこい!」って代理で俺がその独演会に行くことになったんだよ。そしたら楽ちゃんも「よく来てくれたね」って歓迎してくれて、その日に飲みに行って付き合いが始まったんだ。中学のときは彼は不良グループにいて、俺ら田舎から出てきた連中は鼻持ちならなくて気に食わなかったようだから、当時は交流がなかったんだ(笑)。

 彼は本当に遊び方をよく知っていてね。前にも話したけど嶋田家が毎年ハワイに行くようになったのは楽ちゃんがいろいろ教えてくれたからだし、他にもスキーにゴルフにと遊びにそつがない! それから彼は「笑点」に出て、真打に昇進して人気を集めていったね。35〜36歳頃に楽ちゃんと一緒に銀座で飲んでいた時、「こうして銀座で気兼ねなく飲めるようになるには年収がいくらくらいあればいいんだい?」と聞いたことがある。その額を目標に俺も頑張ったよ。ほどなくしてその年収を達成できた時はうれしかったね! 馬場さんの交友関係の“おこぼれ”で同級生と再会できて、ハワイの遊び方も教えてもらって、そういう意味では俺も運があったのかもね。

 そして、また北の富士さんの話をするけど(笑)。日本相撲協会から各部屋に対して、力士一人あたりに支援金が出る「力士養成費」というのがある。昔は入門から30場所つまり5年で幕内に上がらないと、その養成費が打ち切られる制度があったんだ。打ち切られる5年に近づくと、親方も力士に対して「そろそろ田舎に帰って別の生き方を……」と引退を勧めるんだよね。北の富士さんはその打ち切りのギリギリでやっと幕内に上がった。5年目でようやく幕内に上がるのははっきり言って遅いよ。それでも横綱まで登りつめたから本当にすごいよね。北の富士さんも強運の持ち主だと思うよ。

 まあ、北の富士さんはめちゃめちゃ男前だから、親方や女将さんにも気に入られていただろうし、養成費が打ち切られてもきちんと面倒を見てもらえていたかもしれないね。相撲の世界でも顔がいいといろいろ面倒を見てもらえるから。俺はどうだったかって? 顔はともかく、性格がどうしようもなくて“北向き天龍”なんて呼ばれていた。俺が5年かかっていたら「田舎に帰れ!」だっただろうね(笑)。

 相撲取りはよくゲン担ぎをするイメージがあるけど、俺や周りの若い力士はそうでもなかったね。まあ、昔からの伝統的な儀式としてお参りしたりといろいろやったけど、あまり気にしなかった。俺がいた二所ノ関部屋では屋上にお稲荷さんを祀って親方が大切にしていたけど、こっちは調子よく勝っているときは「ありがとう」で、負けていると「なんだよぉ」って悪態をついたり愚痴を言ったりね、いい加減なもんだよ。

 ほかにも相撲取りは「四つ足の動物は手をつくことを連想させるからゲンを担いで食べない」と言われるけど、二所ノ関部屋では豚肉をよく食べていたよ。「女将さん、四つ足の動物はゲンが悪いんじゃないの?」って言っても、「安いからいいじゃないの!」って(笑)。

 そんな俺でもプロレス時代に唯一していたゲン担ぎは、リングシューズを左足から履くこと。1990年代後半か2000年頃にケンドー・カシンが「天龍さん、運は右から入って左から抜けるんです。だからリングシューズを左から履いて、運をここで止めておくといいらしいですよ」と言うから、「へえ、なるほど」と思ってそれからするようになった(笑)。

 俺のゲン担ぎはそれくらいのもんで、俺よりも女房の方が気にかけてくれたね。ここ一番の試合があるときは火打石で送り出してくれたし、十数回の引っ越しも“俺だけにとって”よい方角にある家を探したりしてね。その甲斐あって、こうして無事にリングを降りられたことは運が良かったと思うよ。いろんなおネエちゃんと付き合ったけど、そこまでしてくれる今の女房と出会えたということは“女性運”もよかったんだな! これもちゃんと書いておいてくれよ!(笑)。

 実際に家庭を持って思うんだけど、女房との結婚に踏み切ってなかったら、手元にある金は全部使い切っていただろうし、ひどいことになって今のような天龍源一郎になっていなかっただろう。そう思うとゾッとするよ。女房と結婚したことで人との付き合い方や目的を持って生きることを学んだし、人生やプロレスに大きな影響を及ぼして運命が変わったとも思っている。

 当時、馬場さんに結婚することを報告したら、すぐに「ファイトマネーを上げてやる」と言ってくれてね。俺の個人的な結婚でもちゃんと気に留めてくれて、気遣いをしてくれたことが嬉しかったね。相撲では突っ張って叩き込むしかできなかったけど、女房に対しては怒涛の寄り切りで押し出して結婚を決めた感じだね! あとのときばかりは自分の相撲が変わったよ(笑)。

 女房には「付き合った期間が短いから」と、結婚を渋られたこともあったけど「結婚してから恋愛すればいいじゃないか」というのが口説き文句だった。結婚に踏み出せない男は、俺の怒涛の寄り切りとこの口説き文句を使ってもいいぞ!(笑) そもそも結婚に対して、ちゃんと手順を踏んで環境が完成されて、夢見たまま輝き続けなきゃいけないと思っている人もいるかもしれない。でもね、結婚してからいろいろなことを積み重ねて、構築していくことが結婚生活なんじゃないかな。苦労しても「あのときは大変だったね」「そうだったね」と言い合える人がいるっていうのはいいもんだよ。

 さて、俺自身の運を総括すると、もともとは田舎にいて、13歳のときに相撲から勧誘が来て「将来、相撲に行かなかったことを後悔するのは嫌だ」と思って、運試しのつもりで相撲の世界に飛び込んだのが出発点だ。相撲時代、プロレス時代と大変な目にも遭ったけど、不思議と運の良し悪しは考えなかった。

 農家ではその日、その季節にやることをやらないと生きていけない。嵐だろうが雷だろうが春に田植えをしなきゃ秋にお米を収穫できないし、冬は雪が積もったら雪かきだ。相撲ではその日その日の勝った負けたで番付が上がったり下がったりと、プロレスでも次から次へと対戦相手や敵、難題が現れて「目の前にあることを打破していかないと何も始まらない」「その日一日を一生懸命に生きないと明日はない」と、引退するまでずっと何かに追われるような日々が続いていた。今は十分に食べることができるし、何かに追われるような生活でもないから、とても贅沢で幸せな気分だよ。70歳まで生きてきて、普通に生活できて、俺の事を大事にしてくれる家族や友人、ファンがいるということは、結果的にいい運の人生だったということになるんじゃないかな。

 え? 趣味の競馬の運はどうかって? あぁ、こればっかりはツイてないよ!(笑)。

(構成・高橋ダイスケ)

天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。