キヤノンの高性能レンズには、蛍石という素材が採用されている。一般的な写真レンズはガラスでできている。ガラスは、ざっくり説明すると、材料を溶かして固めたもので、結晶ではない。一方、蛍石は単結晶である。ガラスと蛍石では光学特性が違い、両者を組み合わせて設計された写真レンズは非常に良好に色収差を補正する。しかし天然で得られる蛍石は小さく、写真レンズに使用できるようなサイズのものはなく、取り扱いも難しい。その蛍石を製造している工場を現地取材した。



*  *  *   
 1966年、キヤノンは蛍石採用の高性能レンズを目指し「キヤノンF計画」を立ち上げた。写真レンズを構成する蛍石を人工で製造しようというものだ。そして69年、 世界で初めて一般消費者向けに人工蛍石を採用した交換レンズ、FL−F300ミリ F5.6が発売された。

 以降その高度な技術を駆使した蛍石の製造は現在に至るまで連綿と続き、高性能なキヤノンレンズを支える素材として活用されている。
 その蛍石を製造しているのがキヤノンのグループ会社であるキヤノンオプトロンだ。今回その工場を見学させていただけることとなった。憧れの蛍石の製造現場を間近に見られるということで、茨城県結城市にある同社工場に心躍らせながら出かけた。

 入り口で迎えてくれたのはキヤノンオプトロン株式会社主幹の大場点さんと、蛍石を使ったテレビカメラ用レンズを設計するキヤノン株式会社イメージコミュニケーション事業本部ICB光学統括部門光学技術統括開発センター部長の塗師隆治さん。
 お二人の案内でまずは結晶を成長させる工程を見学する。そこはベルトコンベヤーが流れ、ロボットアームがくるくる回るような、いかにも工場といった現場ではなかった。体育館のような大きなスペースに箱状の機械が立ち並び、全体的に静かである。

「ここではブリッジマン方式と呼ばれる方式で、原料をるつぼで1400度まで加熱し溶融させ、それをゆっくりと引き下げることによって結晶を成長させています。この工程は7〜11日かけて行います」(大場さん)

  ここでできた蛍石の結晶は、まず内部に境界がないか検査される。検査を通った結晶は、再度加熱し徐々に冷やすアニールという工程を経て内部のひずみを取り除いていく。この工程にも7〜9日を要する。室内は静かだが、かなり暖かい。

「夏場は40度近くになるので大変ですよ」(大場さん)
 できた結晶は平面と丸目を出す研削過程を経て、研磨に進む。CG(カーブジェネレーター)でRをつけ、心取りで光軸を出し、研磨、蒸着工程を経て最終的な検査に回る。最初はすりガラスのように白かった結晶が、目の前で徐々に透明になり、我々のよく知るレンズの形になっていく。ちなみに、結城工場では写真レンズ用のほかに、テレビカメラ用の大きなものや、天体望遠鏡に使われるさらに大きなもの(直径400ミリ)も製造している。

 そうしてできた蛍石は宇都宮にあるキヤノンのレンズ工場へ運ばれ、実際に私たちが手にする写真レンズへと組み上げられていく。

「蛍石を使用することで得られる効果は望遠レンズで顕著ですので、望遠ズームレンズや、主に300ミリを超えるような超望遠レンズに使われます。蛍石は同様の性質を持つガラスより軽いため、蛍石を使用しない場合に比べてかなり軽量化ができます。素材の特徴としては非常に傷がつきやすいので、ユーザーが直接触れるような前玉や後玉には使われません。前玉のすぐ後ろなどに組み込まれます。私が設計するテレビカメラ用レンズでは、発売中の全製品に採用しています」(塗師さん)
 また、蛍石を使用した交換レンズは高額であるという印象を持っていたが、「昔に比べれば製造プロセスの進化や歩留まりの向上により、蛍石の値段は下がっています」と大場さんは話す。

 キヤノンで初めて人工蛍石を採用したレンズ、FL−F300ミリ F5.6の発売当時の価格は10万円だ。1969年の大卒初任給が3万円程度なので、現在の価値にざっと換算すると70万円ほどになる。F値が5.6のレンズが、である。現在の300ミリF2.8のレンズなどと比較すると確かに当時の蛍石を使用したレンズが高価格だったとわかる。

 デジタル時代になり、写真レンズにはフィルム時代とは桁違いの高度な性能が要求されるようになった。キヤノンオプトロンの工場で生み出される蛍石は、キヤノンの高性能交換レンズの製造には欠かせないのである。
(取材=アサヒカメラ編集部・高畠保春)

※「アサヒカメラ」2020年5月号より抜粋。