新型コロナウイルス感染拡大回避のための行動制約により、全世界で消費と生産が劇的に縮減した。経済活動が、需要面でも供給側でも蒸発。経済活動の空洞化が発生した。民間の経済活動が空洞化した以上、公的な需要と供給で埋めなければならない。こういう時こそ、政策の最も本来的な出番だ。経済政策の道具立てを総動員して、ぽっかりと口を空けた空洞を埋める必要がある。

悪しき政策の私物化

 ところが、日本政府の対応はいかにも場当たり的でもぐらたたき的だ。この難局において、何としても国民のお役に立つ。あらゆる手段を講じて国民を守る。その気合が全く感じられない。それどころか、苦難の時だというのに、「検察庁法改正案」をごり押しで国会通過させようとするという体たらくだ。

 日本の目も当てられない財政事情の下で、大型の財政出動を容認することには忸怩(じくじ)たるものがある。だが、今はそれを言っている場合ではないだろう。政府も中央銀行も、できる限りのこと、あるいはできる以上のことをやる。必要なカネは作り出し、それを必要としている人に届ける。企業を倒産から守る。消えた需要を補う。供給力の低下を防ぐための支援も合わせて打ち出す必要がある。

 世界の金融資本市場は、新型コロナが発生する前から非常に危うい状況下にあった。世界中で超低金利化が進み、その金融環境の下で、2008年のリーマン・ショック発生前夜よりも政府・民間ともに債務が積み上がっていた。「非伝統的」金融政策をとことん進めてきた国々の中央銀行は、できることがなくなりつつあった。金融政策の「のりしろ」が限りなく微小になってしまったのだ。これは必ずしも日本に固有の問題ではないが、日本の場合には政策と経済運営が安倍政権の「下心政治」によって手段化され、私物化されてきたという大問題がある。

 安倍晋三首相は、かねてより「財政と金融の一体運営」をやりたがっていたはずだ。政府と日銀の関係は親会社と子会社の関係だとまで、言い出していた。つまり、日銀による財政ファイナンスを正当化したがっていた。そして、今こそ、それを臨時・例外的に決行しても間違いない時だ。それだけの緊急事態だということだ。

 ところが、それをも辞さずとは決して言い出さない。それはなぜか。それは、今は緊急事態だから財政ファイナンスをやらせてくれと言ってしまえば、緊急事態が解消した暁には、それをやめなければいけなくなるからだ。既にやっていることを、緊急事態ではなかったのになぜやっていたのかと迫られれば、説明がつかなくなる。政策責任者たちが自分たちのご都合主義に基づいて政策を乱用していると、こういう窮地に追い込まれるのである。

 政府として有事に国民にしっかりと奉仕できない。レスキュー隊としての機能を十全に果たせない。政策責任者において、これは大罪というべきことだ。

希望は市民の監視力

 安倍政権は企業もまた追い詰めている。政府は「日本の稼ぐ力を取り戻す」と宣言して、日本企業に「株主資本利益率を少なくとも8%まで引き上げるべし」と迫ってきた。稼げ、強くなれと絶え間なく政策的に鼓舞される中で、多くの日本企業が次第に目先のもうけばかりに気をとられ、人をモノ扱いし、環境への悪影響なども顧みない「無魂(むこん)企業化」してきた。新型コロナという大災禍に見舞われた今こそ、日本企業は魂を取り戻し、「世のため、人のため」を実践してほしい。

 また、「9月入学」の議論のように、非常事態の下ではさまざまな旧来からのテーマや思いつきやご都合主義が飛び交いがちだ。それらが検討に値するものなのか。それを見極めていくためには、国会の場において野党が力を発揮することが重要だ。野党が調査分析能力を駆使し、判定する。それを期待したい。そして、我々一人ひとりも、目覚めた目と研ぎ澄まされた知をもって政府の行動を監視していかなければならない。覚醒度の高い国民の監視力には「下心政治」もかなわない。

(聞き手=加藤結花・編集部)

====================

はま・のりこ
 1952年生まれ。一橋大学経済学部卒。三菱総合研究所入社、経済調査部、ロンドン駐在員事務所長兼駐在エコノミスト、経済調査部長などを経て現在、同志社大学大学院ビジネス研究科教授。