追悼・星野仙一「ファミリーヒストリー」と誰も知らなかった「あー、しんどかった」の真実

プロ野球の中日、阪神、楽天で監督を務めた星野仙一氏が1月4日に亡くなった。70歳だった。現役時代は気迫あふれるプレーで“燃える男”の異名を取り、監督時代も闘志を剥き出しにした指揮で“闘将”の名をほしいままにした。監督として3チームを優勝に導いたのは、プロ野球史上、星野を含めて3人だけである。

NHKでは追悼企画として、2015年5月に放送された『ファミリーヒストリー』星野仙一の回を1月10日に再放送を行った。そこで語られていたのは、仙一が生まれる前に亡くなった父・仙蔵と、夫の死後、女手ひとつで家族を支え続けた母・敏子の足跡と生き様だった。


星野仙一と名古屋の深い縁


仙一は母子家庭で育っているが、父と母のルーツのことはほとんど知らないようで、自身の著書にも間違った記述がいくつか見られる(「父は神戸の出」「母親が浅草の古い紙問屋の娘」などと書かれていた)。これは母がほとんど過去のことを語らなかったことに理由があるようだ。

岡山県倉敷市出身の仙一がプロ野球選手として入団したのは、名古屋を本拠地に置く中日ドラゴンズ。巨人からドラフト指名を受けるはずが約束を反故にされ、「打倒巨人」を誓ったというエピソードは有名だ。だが、実は仙一は名古屋と大きな縁があった。仙一の両親が出会った場所が、名古屋だったのだ。

母の敏子は、愛知県幡豆(はず)郡饗庭(あいば)の出身。現在の愛知県西尾市吉良町にあたる。「星野」という姓は母方のものだ。ちなみに星野監督時代に中日に入団し、プロ野球の最多登板、最多セーブ記録を持つ岩瀬仁紀投手も西尾市の出身である。

仙一の高祖父(4代前)の星野玄道は幕末の医者だった。玄道の父、浅野春道は尾張藩の藩医を務め、尾張本草学の創始者としても知られている。敏子の父にあたる嘉一は東京で呉服屋を営んでいたこともあった(それが仙一の誤解につながっているのだろう)。敏子自身は勉強を重ね、戦前は看護師として名古屋の病院で働いていた。仙一は母が看護師だったことをまったく知らなかった。

実はよく似ていた仙一と父・仙蔵


仙一は父・仙蔵のことをほとんど何も知らない。

仙一の著書には「神戸の出」と書かれていたが、仙蔵の生まれは定かではない。11歳のとき、岡山県瀬戸内市にあった正田家の養子になっている。その後、飛行機乗りを志して家を出て、名古屋にあった三菱重工の工場で働くようになる。当時、ここが航空機製作の中心地だった。仙蔵は零式戦闘機の製作にもかかわっていた。

「何か世の中が変わってくれば自分はもっと大きな仕事をしたい」と大きな意欲を持っていた仙蔵。常に上昇志向を持ち、中日、阪神の監督を経て日本代表監督にまで上り詰めた仙一の思考とよく似ている。

仙蔵と敏子が出会ったのは名古屋の病院だった。体調を崩して入院していた仙蔵が、そこで看護師だった敏子と出会ったのだ。その息子が後々、名古屋のプロ野球チームに入団し、大活躍を遂げるのは必然だったような気がしてくる。

たたき上げだった仙蔵は非常に厳しい上司だったという。しかし、生まれた娘(仙一の姉)を特に可愛がっていた仙蔵を部下が描いた絵が見つかった。そこには「天下の正田仙蔵」「仙チャン」などと書き添えられていた。職場では怖い上司だった仙蔵だが、実際は同僚や部下からは慕われていた。これも仙一とよく似ている。「仙チャン」とは星野のあだ名と同じである。

太平洋戦争に突入すると、三菱は岡山県倉敷市に飛行機の生産拠点を移すことになり、仙蔵たちも居を移す。仙蔵は工長として若手の指導に励み、三菱の青年学校で4000人にも及ぶ工員を育て上げた。そして終戦。仙蔵が気にしていたのは、工員たちの生活ぶりだった。教え子の家に「薪に使ってくれ」と廃材を運んできたこともあったという。こうした仙蔵の心配りは、戦力外になった選手たちの生活を心配して就職先を熱心に世話していた仙一の行動と重なる。

しかし、脳腫瘍が仙蔵を蝕み、昭和21年10月、48歳の若さで亡くなる。仙一が生まれたのは、その三ヶ月後だった。仙一は自分と父親を比較して、こう感想を述べている。

「厳しくも温かく、兄貴であり、親父でありと、今だったら爺さんになりますけど、そういうところは似てるかなぁ」

「お父さんがいる子にはゼッタイ負けない」


夫を失った母・敏子は必死になって働いて3人の子を育て上げた。家財道具はすべて売り払い、かつての夫の教え子の家で畑仕事をした。その働きぶりを見て、教え子一家も「頭が下がる思い」と振り返っている。一家は働き分より多くの野菜などを敏子に手渡していたという。

『熱将 星野仙一』(戸部良也・著)には、母親が働いている間、長姉が4歳の仙一を小学校に連れていき、授業中は机の横に座らせていた様子が書かれている。また、仙一らは母の手づくりのわらぞうりを履いて幼稚園に通園していたが、あまりに堂々としているので同級生たちは「運動靴を履いている私らのほうが変なのかと思った」と振り返っている。


仙一は働きに出る母親の後ろ姿ばかり記憶しているという。その後、明治大学に進学した仙一だが、母の仕送り袋はすべて保管していた。野球部で猛烈なしごき、上級生たちからの理不尽ないじめにあったときは、「いつも母親のことを思い浮かべて耐えるしかない」と考えていた(『ハードプレイ・ハード 勝利への道』より)。

小学生の頃から仙一は次のような「二決心」を持つようになる。
「お父さんがいる子にはゼッタイ負けない」
「家の中でたったひとりの男なのだから、いつもちゃんとして、なにかあったら一番ガンバル」(『シンプル・リーダー論』より)


また、仙一は母子家庭で育った近藤真市、立浪和義らの選手に思い入れが強かったとも明かしている(『星野流』より)。なお、現在中日に在籍している大野雄大、仙一の明大の後輩にあたる柳裕也も母子家庭で育っている。

仙一がプロ野球で活躍した後、母・敏子はかつて働いていた家に出向き、御礼として多額の現金を置いていった。受けた恩をずっと忘れていなかったのだ。息子がグラウンドで活躍する姿を、自らチケットを買った外野席で静かに見守ることもあった。仙一が阪神の監督として優勝を遂げた2003年、敏子さんは逝去した。91歳だった。

母の死と阪神優勝


番組では触れられなかったが、敏子さんの死にまつわる凄絶なエピソードがある。

敏子さんが亡くなったのは9月13日、阪神が優勝を決める2日前のことだった。突然の悲報を聞いた仙一は、14日の夜、名古屋での試合を終えてから人知れず大阪まで車を飛ばして母の通夜にかけつけた。優勝が決まるまで母のことは誰にも言わず、優勝決定後「実は今日、母の葬儀なんです」と親しい記者に打ち明けていた(『星野仙一 決断のリーダー論』島村俊治・著)。15日の朝に営まれた母の葬儀には出席していない。仙一は自分の病気のことも周囲の誰にも打ち明けなかった。誰にも弱みを見せないところは首尾一貫していたのだ。


優勝決定後の仙一のインタビューの第一声は「あー、しんどかった」だった。まさに心からの呟きだっただろう。甲子園に詰めかけた大観衆は大歓声をあげたが、仙一の母の死のことは誰ひとり知らなかった。

しかし、番組が終わった後も、仙一はカラッと笑って涙ひとつ見せなかった。「僕は、お袋もそうだけろうけど、過去のことをあんまり知ってもしょうがねえじゃねえかと」「それより未来のこと、将来のこと、という。お互いがそうじゃなかったのかな」。星野仙一、前へ前へと進み続けた人生だった。
(大山くまお)


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