かつて日本医療界の革命児と言われた男・徳田虎雄。

昭和50年代「生命だけは平等だ」との理念を掲げ、「24時間365日オープン」の病院を全国に拡大し、各地の医師会と対立した。

その後、政治の力を求めて奄美群島区から衆院選に立候補すると、金まみれの選挙戦を展開し、耳目を集めた。

善なのか、悪なのか。徳田虎雄の激動の半生を追う。

前編では、虎雄が医者となり、高い志を持って勢力を広めていく過程を、過去の資料と妻、元側近の取材から紐解いていく。

【後編】「政治の力で医療を変える」徳田虎雄の金まみれ選挙戦のワケと、難病発症までの激動の半生

   

弟の死が原点。徳田虎雄が医師になるまで

男は、一代で日本最大の医療グループを作った。

男は、神のごとく愛を説いた。

「ラブ ベターズ ホワット イズ ベスト」

男は、よく怒っていた。

「沖縄の人が、鹿児島の人が、奄美の生活を良くしたことがありますか!」

男は、本気で総理大臣を目指した。

「奄美の政治を変えると共に、日本の政治の流れを変えようではありませんか」

男を知る人間たちは、口々に言う。

「日本制覇して、世界制覇して。織田信長みたいなもんでしょ」

「天才ですから」

「仏様みたいなもんですね」

「世のため人のためにやっていると思われてるけど、それはないわ、徳田は。そんなきれいな男じゃない」

「世界大統領になるんだとか言い出したりする。それはちょっと困ったなと思いましたけどね」

男は呪文のように、ある言葉を繰り返した。

「生命だけは平等だ」

男の名は、徳田虎雄。評価の分かれる男だ。

鹿児島最南端の島、与論島。

人口およそ5000人の、小さな島に病院がある。与論徳洲会病院。

ベッド数81、CT・MRIといった機器を完備し、24時間365日患者を受け入れている。

患者はこう話す。

「この病院のあるおかげさまでね、もう沖縄に行かなくてもいいし。沖縄に行くのもお金かかるでしょ」

病院のロビーに飾られている写真の男が、徳洲会グループ創設者・徳田虎雄だ。

徳田虎雄は、昭和13年(1938年)徳田徳千代・マツの長男として、兵庫県高砂市に生まれ、2歳のとき、両親の故郷・鹿児島県徳之島に移り住んだ。

徳之島はサトウキビの生産が盛んな、奄美群島の島だ。昔も今も、決して裕福な島とは言えない。島の人たちは少年時代の虎雄をよく覚えていた。

「毎日勉強していましたよ。12時、1時頃まで。毎日ランプみたいなものを燃やしていて」

「それで喧嘩は強いですよ。あんまり親しい友達もいなかったんだけどね。自分勝手なことばっかりする男だから。人の言うことなんて、聞きはしなかったからあんまり」

虎雄が医師を目指したきっかけは、9歳の時にさかのぼる。ある晩、3歳の弟が激しい下痢と嘔吐を繰り返した。

虎雄は母に頼まれ、真っ暗闇の山道を走り、必死に助けを求めた。しかし、医師はすぐには腰を上げず、翌朝、弟は白目を剥いて冷たくなっていた。

「なぜ先生来ないの、母ちゃん」

この弟の死が、医師を目指した原点だと虎雄は後年まで繰り返し語った。

医師になるため、虎雄は徳之島を出て、親戚を頼り大阪に移り住む。2年の浪人を経て、昭和34年(1959年)大阪大学医学部に入学した。

その年の夏休みには、同郷の1つ年下の秀子を大阪に呼び寄せ、結婚した。卒業後、医師になった虎雄は、33歳の時に、最初の病院開設を計画する。

阪大時代の同級生、多田羅浩三のもとに相談に来た。

「松原(大阪)に80床か100床の病院をつくるというわけですよ。おまえなぁと。やっぱり30ぐらいから始めたらどうだと。病院やりたいっていうのはいいけどもと私は言いましたよ。そうすると彼はね、俺は今から100も200も病院をつくる。

病院っていうのは100床ぐらいないとね、24時間365日ケアできいないっていうわけですよ。彼は当時からそう言っていますからね。これには参りました」

24時間365日患者を受け入れる。弟のような死を繰り返してはならない。虎雄の決意は固かった。

夫の計画を、妻・秀子は支えたが、これといった財産のない徳田家に銀行は冷たかった。秀子は当時をこう話す。

「なかなか貸してくれるところは…。そう甘くはなかったんですけどね。私が普段は子どもを背負って、乳母車に子どもを乗せて、商店街にある銀行すべてをまわったんです」

結局、秀子が見つけた銀行で虎雄は金を借りた。担保は、自らにかけた1億7000万円あまりの生命保険。銀行で虎雄は「返せない時は自殺する」と啖呵を切った。

たらい回しが社会問題。虎雄は「現代の赤ひげ」に

そして昭和48年(1973年)、ついに最初の病院「徳田病院」がオープンした。虎雄は理想の医療を実現するため、常識破りの運営方針をとった。

年中無休24時間オープン、入院保証金なし、患者からの贈り物は一切受け取らない。

これが当たった。

時代は高度経済成長の終わり。大都市圏でさえ休日夜間に空いている病院は極めて少なく、救急患者のたらい回しが社会問題となった。

虎雄はいわば「現代の赤ひげ」として庶民の心をつかんだのだ。

この時、夫婦にはすでに7人の子どもがいた。

当時を知る人はこう話す。

「徳田虎雄院長はこの裏側に住んでいて、子どもがようけおったんですわ。この角のお店で、徳田虎雄先生は子どもを連れてな、風船のくじ引きとか、あんなのをしとったんですわ。なんかさっぱりした先生でしたよ」

昭和50年、虎雄は医療法人徳洲会を設立する。徳洲とはそのまま、ふるさと徳之島を意味する。この時虎雄は、ある理念を掲げた。

「生命だけは平等だ」

理念を胸に虎雄は突き進む。

最初の病院開設からわずか5年で、大阪に新たに3つの病院を建てた。さらに病院を増やすため、虎雄は経営に専念することにした。そのためには優秀な事務職が必要だった。

そこへ1人の男が現れる。のちに、徳洲会の事務方トップとなる能宗克行。偶然参加した大学の就職説明会で、虎雄に魅了されたという。

「一見してですね、普通の人間ではない。いい意味でですね、常軌を逸しているという風な感じを受けましてね。天才的なアジテーター(扇動者)と言ってもいいかもしれませんけどね。

我々うぶな学生に対して言うわけです。『君たちは、自分だけがいい目を見て金儲けをしたいのか、多くの人の命を救いたいのか、世の中に貢献したいのか、どっちだ』と。そこで、言ってみれば1つのハードルを設けられてそれをクリアさせられるわけですね」

就職から数か月後、虎雄の運転手になった。

「今から考えるとはちゃめちゃですよ。青信号は問題なく渡れ、黄色は急いで渡れ、赤信号は左右見て渡れですからね。悪いけどおまえの1秒と俺の1秒の価値が何万倍も違う。俺の1秒をどう削り出すかということに、おまえは注力しろと。

さすがに私も徳田院長に言ったんですよ。信号無視はですね、法治国家の日本にいる以上、法律は守ったほうがいいんじゃないですかと言った時に、『おまえのお母さんまたはお父さんが、交通事故で病院に運び込まれ重体だという状況の時に、信号が赤だったら、左右から車が来てなければおまえ渡るだろ。俺は常にその精神だ。世界中、または日本中の患者さんを救うために俺は全力投球でやってるんだ』と。そう言われると、一瞬そうかなと思うんですよ。納得はできないけど、理解できるから。理解できる範囲で、最善を尽くそうと思って、ついていきましたね」

能宗が就職した2年後、今度は医師として、虎雄の右腕になる男が現れる。

盛岡正博は、虎雄と同じ徳之島生まれ。京都大学医学部在学中は、学生運動の闘士で、卒業後アメリカの小児病院などで勤務し、昭和56年(1981年)徳洲会に入った。

「あんなに気負ってベラベラと、自分の思いの丈をしゃべるという世界から遠ざかっていましたから、それこそ10年ぶりぐらいに、まだ学生運動を続けている人がいるみたいなところが、まず徳田先生に感じた私の印象ですね」

虎雄は、盛岡にも「生命だけは平等だ」という理念を熱く語った。理念に共感した一方で、盛岡は抵抗も感じた。

「適当な言葉かわかりませんけど、被害者意識に基づいたメッセージというのは、僕は一方通行だと感じたんです。医療を提供する側も疲弊しないようなシステムを作るということが必要じゃないかと。それこそ彼の言葉を使えば、『生命だけは平等』なんですから」

「患者だけでなく、医療を提供する側の命も守られるべきだ」

虎雄は盛岡の考えを受け入れ、徳洲会はより強固な組織になった。

このころ徳洲会は、北は北海道から南は沖縄まで、病院の数が11にまで増えている。虎雄は、全国展開のスピードを加速させたかった。だが、その前に大きな壁が立ちはだかった。

医療界の革命児・虎雄と日本医師会の対立

それは日本各地の医師会だった。交渉や調整にも応じず、年中無休の病院建設に邁進する徳洲会は、医師会にとって秩序を乱す集団に見えた。

医師会のやり方は露骨だった。鹿児島県鹿屋市では、医師会が市議会に徳洲会進出の反対を訴え、学校の健康診断をボイコットした。

「徳洲会病院の特色というのは、過剰診療と余計な患者の掘り起こしと。そういうことで、悪く言えば金儲け病院でしょう」と当時の鹿屋市医師会長。

虎雄は抵抗する。

「鹿屋市からですね、380台80人ぐらいの急患がですね、救急車でフェリーで鹿児島市内に来てるという現状ですからね。大隅半島に、薩摩半島に負けない病院を作りたいと」

結局、医師会の反発を押し切り、大隅鹿屋病院は完成したが、同様の事態は全国各地で起きた。

昭和50年代の週刊誌が、虎雄と日本医師会の対立をあおっている。虎雄を日本の医療を変える革命児、ヒーローなどと持ち上げた。虎雄は誌面で、「医者はこれまで偉すぎた。意識を変えなければならない」と息巻いている。

阪大の同級生・多田羅浩三は、医師会との対立を深める虎雄をいさめた。

「日本医師会のことを悪く言うなと。それはそれで医者を支えているじゃないかと。しかし『多田羅、大事なことが1つある。そういう医者が出し惜しみしている時に、俺の弟は死んだんだぞ。人間には死ぬという現象がある。死んだら取り返しがつかん。だから俺は、24時間365日、日本医師会が反対すればするほどやる』っていうわけです」

虎雄は思った。もっと病院拡大のスピードを上げたい。そのためには、医師会を黙らせる武器が必要だ。虎雄は政治の力を求めた。

「この10年間は、日本の医療が徳田虎雄を必要としていた。だから私は、10年間日本の医療に命をかけてきた。その次の10年間は、国家が徳田虎雄を必要とするときが来るわけですよ。そしたら5〜6年ぐらいは内閣総理大臣を務めてあげないといけないんじゃないだろうか」

そして、億単位の金が乱れ飛ぶ、壮絶な選挙戦の幕が上がることとなる。

後編では、権力を追い求める虎雄の奔走を追う。

【後編】「政治の力で医療を変える」徳田虎雄の金まみれ選挙戦のワケと、難病発症までの激動の半生