「1-6や1-7という結果では何も残らない。そっちのほうが恥です」

 昨季のJ2 最終節で生まれた衝撃的なスコア、1-13。この事件の当事者の一人である中田一三に「1−13」の真実を迫った3/6発売の『フットボール批評issue27』から一部抜粋して前後編で公開する。今回は後編。(取材・文:海江田哲朗)

——————————

 勝点68の7位で、プレーオフ出場の可能性を残す最終節。相手は頭ひとつ抜けた強さでJ1への切符を手中に収め、プレッシャーから解放されている柏レイソルだった。

 開始6分、オルンガがニアをぶち抜くスーパーシュートを決めて柏が先制。23分、27分、33分と京都は立て続きに失点し、反撃は38分に小屋松知哉のゴールで1点を返すのみ。3点ビハインドで前半を終了する。後半、柏の攻撃はさらに猛威を振るった。

「勝つ気で試合に臨んでいるので、逆転することしか頭にはなかった。とにかく、2点目を取りにいく。その姿勢がすべて裏目に出た結果。負けようとしたってあんなにゴールが入るものではないですが、勝ちにいっているから点を入れられる。一度、守備的にシフトするといったやり方は、いま考えてもできないですね。それ以上の失点を回避して、1-6や1-7という結果では何も残らない。そっちのほうが恥です。

 全面的に攻めたとき、J2首位のチームとはこれくらいの差がある。シーズンを通し、それをどれだけ隠してやってきたか。僕は恥とは思ってないです。本多(勇喜)や(田中マルクス)闘莉王を故障で欠くアクシデントがあったとはいえ、それが去年のサンガの力だということ」

 終了のホイッスルが鳴り、大型ビジョンが映し出したのは1-13という衝撃的なスコア。京都は8位でシーズンを終えた。

 中田は苦笑しながら言う。

「8点あたりから、もしやというイメージは浮かびました。神様、何かメッセージを残そうとしてるんかなと」

12点でも14点でもなく、13点というのがミソである。サッカーの神様にそんなひまがあったかは別にして。

 中田は5人兄妹の末っ子として育った。男は自立心を持つべしという父の方針により、4人の息子は全員名前に「一」が付く。一三の名は、阪急電鉄や宝塚歌劇団、東宝などを立ち上げた大実業家の小林一三にあやかり、付けられたそうだ。

 試合後、打ちひしがれた京都のゴール裏に足を向けた中田は、サポーターの前に立って胸の内にある思いを伝えた。

「しゃべろうとは決めてなかったんですけれど、選手たちが罵倒されていたので、これはあかんなと思って。このままでは一昨年の関係に戻ってしまうという危惧もあり、拡声器を持ちました。これがラストになるとわかっていたし、みんなの前で話す機会はもうない。あの場に立つと思いがあふれ出て、爆発してしまいましたね。サポーターも賢くなれよ、と」

 中田がサポーターへの挨拶を終え、ロッカールームに戻る。消沈する選手たちに、最後の締めの言葉を話せないままスタジアムを後にすることになったのは少し心残りだったという。

(取材・文:海江田哲朗)

▽中田一三(なかた・いちぞう)
1973年4月19日、三重県伊賀市出身。四日市中央工業では中西永輔、小倉隆史らとともに「四中工三羽烏」と呼ばれ3年時に全国制覇を成し遂げる。卒業後はJリーグ入りを果たすも12 年間のプロ生活はケガとの戦いだった。引退後は地元三重で指導者として歩み始め、13年からFC.ISE-SHIMAの監督や総監督、アドバイザーを歴任。18年に京都サンガで突如としてJリーグ監督を任されると、夏場には一時首位に立つなど前年19 位と低迷したチームの建て直しに成功。昨季の最終節はJ 1昇格プレーオフ進出が懸かる柏との大一番だったが終わってみれば1 – 13という衝撃的なスコアで大敗した。シーズン終了直前に契約満了により退任。