「人のため、世のために」 京都賞を創設した稲盛和夫の哲学

「人のため、世のために」 京都賞を創設した稲盛和夫の哲学

2017年6月、33回目を迎えた、京都賞受賞者が発表された。「人のため、世のために」を理念に、同賞を創設した稲盛和夫の哲学とは。

京都・烏丸通りに面したビルに入り、稲盛財団の「サロン」と呼ばれる一室で、85歳になる理事長の稲盛和夫にインタビューをしていたときのことだ。

「このへんでやめましょうや」
 
突然、稲盛が話を切り上げ、ソファから立ち上がった。彼は「稲盛さん自身は、今、欲はありますか」という質問に答えている最中であった。
 
京セラ、KDDIを立ち上げ、経営破綻したJALを再生させた稲盛は、中国で「経営之聖」と呼ばれる。拝金主義が渦巻く彼の地で、稲盛が説く「利他の心」が経営者たちに共感されている現象について意見を聞きながら、自身の欲について問うたところ、両目を閉じて沈思黙考した後、彼はこう話し始めていた。

「ないと言えば嘘になるかもしれませんが、もうないに近いですね。あれが欲しい、これが欲しいというのがないものですから、そういう意味でお金の使い道がないのです。今も印税が入ってきますけれども、出ていかないものですから」
 
ここまで話したところで、「やめましょうや」と、目の前でカーテンをぴしゃっと閉められたような緊張が走ったのだが、意外にも彼はこう続けたのだ。「麺がおいしいところがあるんです。一緒にラーメンでもどうですか」

稲盛フィロソフィの「原点」

「あの稲盛和夫とラーメンを食ったのか」正確に言うと担々麺なのだが、このときのことを誰彼となく話すと、一様に驚かれる。稲盛の経営哲学やJAL再生時の数々の逸話を聞いたり読んだりすると、烈火のごとく怒る厳しい人という印象が強いからか、ギャップがあるのだろう。

「稲盛さんは、良き師」と言う日本電産の永守重信はこんな話を教えてくれた。

「日本電産本社ビルの竣工式に稲盛さんがお祝いに来てくれたけど、鉢植えを指して『これは何や。あんたのところは全部、生の木を置いとるやないか』と言う。『水をやらないかんし、枯れたら捨てに行かんとあかん。全部手間がかかるやないか』と注意を受けました」

永守は「せこい」と言いたいのではない。「あの人の執念は本物」と言うのだ。その執念とは一体、何だろうか。「古い話になりますが」と、彼が述懐する人生最大の葛藤に原点がある。1955年、鹿児島大学工学部を出て入社した京都の碍子メーカー「松風工業」でのことだ。

「入社早々、給料が遅配で、同期入社の5人で『こんな会社にいてはいけないから、なるべく早く辞めよう』と話し合っていました。自衛隊の幹部候補生の募集を見て、私は受けようと思い、鹿児島の兄に戸籍抄本を送ってほしいと手紙を出したら、『せっかく入れてもらった会社なのに、不平不満ばかり言ってとんでもない』と戸籍抄本を送ってくれません。結局、同期は私一人になり、不平をぶちまける友だちもいなくなったので、設備が非常に粗末な研究室で研究に没頭することで、憂さを晴らしたのです」
 
近所でネギとモヤシと味噌を買って、研究室で自炊し、寝泊まりしながら、日本初の画期的なファインセラミックスの開発に成功した。

入社から3年後に退社したが、「稲盛くんのファインセラミックスの技術を世に問う」と、自宅を担保に入れてまでして出資金を用立てる者たちにより、京都セラミックは誕生した。稲盛が「京セラをつくっていただいた」という言い方をするのは、このためだ。

京セラ設立後、大手メーカーから電話があり、こう言われたことがある。

「大変失礼な言い方ですが、うちには東大や東京工業大学で窯業を専攻した連中がたくさんいるけれど、彼らができないことを、鹿児島大学しか出ていないあなたが次から次にやれるのはなぜですか。できれば、我々の注文をつくってくれませんか」
 
下請けとして技術を提供してくれという依頼である。彼は「その気はありません」と断った。

創業3年目の29歳のとき、経営哲学の原点となる事態に直面した。高卒社員11人が定期昇給など将来の待遇保証をしてほしいと要求書を突きだしたのだ。労働運動が激しい時代でもあり、苛烈な団体交渉が3日間続き、それは稲盛の自宅にも及んだ。

「そのとき、心から思ったのは」と稲盛は言う。「会社をつくっていただき、何とか頑張って立派な会社にして、自分の給料も増やしてもらい、郷里で苦労している両親と5人の弟妹に仕送りができればと思っていたら、社員たちから『我々の生活をどうしてくれる』と言われる。他人である社員のために一生懸命尽くして、大事な自分の弟や妹の面倒もみられないとは、なんと寂しいことよと思いました。しかし、会社経営とはそういうものだとわかったのです。中に住む社員を幸せにすることが第一であると思った瞬間、会社経営の目的を『全従業員の物心両面の幸福を追求する』とメモ帳に書き、翌日、全社員の前で宣言しました」

「経営は理屈通りにいかない」

84年、稲盛は約200億円の私財を投じて「稲盛財団」を設立している。

「たまたま京セラが大成功をして、株も値上がりし、思いもよらぬ資産が入ってきました。資産家になることが目的ではなかったものですから、何とかそれを世のため人のために役立てたいと思ったわけです」と、彼は財団の事業として京都賞を創設する。先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門の3つからなり、ノーベル賞を参考にしている。稲盛はノーベル財団を詳しく知ろうと、自らスウェーデンに足を運んだ。同財団の専務理事に学び、「ノーベル賞とは兄弟のような関係」だという。


毎年11月に開催される「京都賞」の授賞式。記念講演、高校生向けフォーラムも行われる。

84年は第二電電(現KDDI)を立ち上げた年でもあり、当時の報道によると、稲盛は自分の持ち株の一部を京セラの全社員に分与している。

このころのことで、もう一つ、特筆すべきことがある。83年、稲盛に経営の教えを請おうと、中小企業の若手経営者らが「盛友塾(現・盛和塾)」を発足させたのだ。この盛和塾に、稲盛の執念が伝わってくるエピソードがある。

稲盛からもっとも激しく怒られた塾生の一人に、「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」などのレストラン事業で知られる「俺の株式会社」社長、坂本孝がいる。稲盛より8歳年下で、ブックオフの創業者として有名だ。坂本が盛和塾に入ったのは、95年。ブックオフを創業して4年が経ったころだった。

「当時、経営に迷いが生じていたころで、片っ端から世の中の経営セミナーに顔を出していた」という坂本は、偶然、書店で、89年の稲盛の最初の著書『心を高める、経営を伸ばす』を手にした。何度も熟読するうちに、「稲盛さん本人に会ってみたい」という思いが高まり、夏の日、彼は大津のプリンスホテルで開かれた盛和塾の例会に出かけた。

会場に足を踏み入れると、「これは宗教か」と思えたという。稲盛が登壇すると、1000人ほど集まった塾生がしんと静まりかえり、稲盛の話をメモする鉛筆の音だけが会場に響き続ける。異様な雰囲気にたじろいだものの、それでも入塾した理由を坂本はこう言う。

「稲盛さんは『仲間のために汗をかいているか』と言う。この言葉が私の心に落ちました。松下幸之助も福沢諭吉も、人のために尽くせとは言っていますが、理屈はわかっていても、経営は理屈通りにはいかないから、みんな悩んでいる。仲間のために汗をかくという実体験を通した言葉を聞いたとき、俺が会社をつくり、俺が雇っているんだから、俺の言うことを聞くのは当然だろうという自分の慢心に初めて気づかされたのです」
 
稲盛の講演テープを運転中に何度も聞き、信号で止まると、巻き戻して繰り返し聞けることに喜びを感じたという。稲盛フィロソフィの使徒を自負する坂本だが、もっとも彼らしいエピソードはその後の人生にある。

「そういうおまえはどうなのか」

2005年、65歳にして東証一部に上場したが、その2年後、週刊文春がブックオフの不正会計を告発する記事を掲載。大騒ぎとなり、坂本は責任を取って辞職した。そのとき、「八重洲にある京セラの東京事業所に来なさいと塾長側から連絡がありました」と坂本は回想する。
 
会長室で二人きりになると、稲盛の雷が落ちた。「あんた、一体、何を勉強していたんだ!」。坂本が事情を説明しようとすると、「お前はすぐ弁解する!」と、稲盛が畳みかける。全身から怒りを漲らせ、「反省がない!」と、テーブルを拳でコンコンと叩きながらまくしたてるため、坂本は恐ろしさのあまり、顔をあげることすらできなくなった。盛和塾で、塾生の質問に対して稲盛が、「お前、何を言うんだ!」と、丸めた新聞紙で頭をポカンと叩く姿を見たことはあったが、このときばかりは「まるで戦いの場のような怒りで、恐怖感しかなかった」と言う。

「15分という約束で会いに行ったのに、塾長の怒りが収まらず、秘書が何度もメモを手に次の来客を知らせに来ても、それでも終わらない。京セラの役員だって稲盛さんとは5分しか面会時間はないと言われているのに、結局、私が会長室から解放されたのは45分後でした」
 
結局、一言も説明をさせてもらえず、”京セラの社員でもない俺が、なんでこんなに怒られなきゃいけないんだ”と嘆きたくなったが、そんな気持ちを吹き飛ばしたのは、エレベーターホールで稲盛が両手で坂本の手を力強く握ったときだった。稲盛は怒りっぱなしではなく、「頑張れ」と激励して、こう言ったのだ。

「どんなことがあっても全面的に協力する。何でも俺に相談に来い」

—それから2年後のこと。私(筆者)は坂本と会う機会があり、社会的名声を失った彼に、「これからどうするんですか」と聞いた。すると、「もうすぐ面白いことをやるから、見といてくださいよ」と自信に満ちた表情で言う。真に受けられなかったが、坂本が「俺のフレンチ」で再び脚光を浴び、大ブレイクしたのはそれからすぐ後のことだった。

現在、「俺の」シリーズは、34店舗まで拡大し、再び上場を目指すという。「90%はうまくいくと思っていたし、飲食業は初めてですが、不安はなかった」と振り返り、その理由をこう言うのだ。

「稲盛フィロソフィの実践者だからです」
 
つまり、「俺の」のコンセプトは、「料理人を幸せにする」という利他の精神から始めたという。

「調理師学校を出た料理人は10年以内に9割が転職します。志はあっても、給与が低く、独立ができないし、料理長にならなければ自由に料理もつくれない。厨房には未来がないのです」
 
そこで力のある料理人に店を提供した。立ち飲み形式にして客の回転率を上げることで、最高の食材を使った高級料理をリーズナブルな値段で提供しても利益を確保できる。これが、予想通りの大ヒットとなったのだ。

「ビジネスでもっとも大切なことは、錯覚を起こすことだと思うんです」と、坂本は言う。「恋愛が美しい誤解だと言われるように、錯覚を起こすほど情熱をもつこと。稲盛フィロソフィを強く信じれば成就できると、信じたからできたのです」
 
稲盛が人のために怒り、人のためにカネを使うのは、自己への投影かもしれない。自著『京セラフィロソフィ』で、彼自身がこう述べている。

〈私自身、偉そうなことを言っていますけれども、一生懸命にこうして話をすることで、(中略)必ず「そういうおまえはどうなのか」と私自身を責める自分というものが出てきます。その葛藤の中で私自身を高めていく、この繰り返しこそが人生なのだと思うのです〉

稲盛財団でのインタビューを切り上げて、中華料理屋の円卓に並び、担々麺が来るのを待つ稲盛に、「7月に横浜で開かれる盛和塾の世界大会はエネルギーを使って大変じゃないですか」と尋ねた。すると、インタビュー中は終始変わることのなかった高僧のような硬い表情が消え、笑みを浮かべてこう言う。「自然体ですよ」と。
 
その後、坂本が言っていた言葉を思い出す。彼は「稲盛さんを崇拝の対象にしてはいけないと思う。経営の神様として神格化すると、それは到達できない目標になってしまう。塾長が言いたいのはその逆で、『できないことはない』ですから」
 
今でも稲盛は盛和塾の例会で、自らをこんな言葉で表現するという。

「私たち中小企業の社長は—。」

自分の原点を何度も繰り返して詳細に語るのも、決して忘れないためなのかもしれない。

いなもり・かずお◎稲盛財団理事長。1932年、鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。59年、京都セラミック(現・京セラ)を設立。社長、会長を経て、97年より名誉会長。84年に第二電電(現・KDDI)を設立し、会長に就任。2001年より最高顧問。10年には日本航空会長に就任。15年より名誉顧問。84年、稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設。

藤吉 雅春

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