いよいよ物語が盛り上がってきた大河ドラマ『麒麟がくる』。最終回は、長谷川博己演じる明智光秀と、染谷将太演じる織田信長が演じる「本能寺の変」とあって、今から話題を呼んでいる。そもそも史実では「本能寺の変」とはどのような騒乱だったのだろうか。謎の武将の生涯を追った『明智光秀』(中公新書)を著わした福島克彦(大山崎町歴史資料館館長)さんは、謀反の意を周囲に示したタイミングを分析しているーー

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晩年の信長による京都の宿所として使用

天正10年(1582年)5月29日、信長は京都本能寺に入った。6月1日には、勅使として甘露寺経元、勧修寺晴豊、太政大臣の近衛前久(このえ・さきひさ/ドラマでは本郷奏多が演じる。以下ドラマの配役は「演:」と表現)、その子息信基、前関白の九条兼孝、関白一条内基、右大臣二条昭実らが信長を訪問している。公家衆に対する信長の歓待は上機嫌のうちに行なわれたと言われ、甲州攻めが思いのほかうまく進んだこと、次の西国出陣(中国攻め)の計画などを語っている。

信長の入洛は、延期が続いていた中国への出陣のためであり、自身も6月4日の出陣を公表している。もっとも信長は、嫡男信忠と京都で合流しており、この出陣の権限も信忠に任せていた可能性がある。一方で、このときは信孝の四国派兵も並行して実施されており、その監督も兼ねての出陣であった。

宿所本能寺は、京都下京の北西隅にある日蓮宗寺院である。本来、下京の都市民は日蓮宗の檀徒・信徒が多く、彼らの居住域の近隣にも妙顕寺、妙覚寺などの日蓮宗寺院が林立していた。このうち本能寺は下京外郭線(惣構:そうがまえ)の北西隅に位置していた。

信長が京都に入るとき居所としたのが、妙覚寺や相国寺などの洛中の寺院であった。特に妙覚寺は、彼の寄宿先としてもっとも頻繁に表れる。しかし、足利義昭(演:滝藤賢一)らに「京都御城」と呼ばれる御所を構築することはあったものの、本人自身は自らの御座所を築く執着を持たなかった。早くから京都防衛の重要性を肌身で感じていた光秀は、義昭退去のタイミングで、吉田山に「御屋敷」を構築するよう進言するが、結果としては却下された。

以後も信長は、わずかな手勢で洛中に入ることがたびたび見られた。永禄11年(1568)9月に上洛以後、何度か、洛中洛外に「御屋敷」を構築する機会はあったが、結果として実現することはなかった。天正4年(1576)以降、二条晴良(演:小籔千豊)の屋敷を接収して築いた「二条御新造」も、誠仁(さねひと)親王(演:加藤清史郎)の御所として進上している。

一方、本能寺は天正8年2月26日に信長の「御座を居(す)ゑらるべきの旨」が出され、村井貞勝によって普請がなされた。以後、晩年の信長による京都の宿所として使用された。