世界報道写真財団(オランダ)が発表した第63回世界報道写真(WPP)コンテストで、EPA通信の黒川大助(44)が「スポットニュース部門」で2位となった。黒川が電話取材に語った、緊迫する現場の様子とは。(本間沙織、文中敬称略)

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それは、最後の一枚だった――。

2019年1月15日。「デュシットD2ホテルで爆発があった。銃声が聞こえる」。ドイツに本部を置く通信社、EPA通信東アフリカ支局(ナイロビ)の黒川は一報を聞き、すぐにナイロビ市内の現場へ赴いた。

到着すると、駐車場で2台の車が音を立てて燃えていた。あたりは銃の音が鳴り響き、悲鳴が聞こえる。黒川は防弾チョッキとヘルメットを忘れてきたことに気づく。だが、戻っている時間はない。

黒川は大きく深呼吸をした。「よし、行くぞ」。2台の一眼レフカメラを抱え、全速力でホテルの敷地内に向かった。到着が早く、私服警官が数人いるだけだ。割れた窓ガラス、手投げ弾……。建物の壁面に背中を密着させ、慎重に周囲を見ながら壁づたいに歩いた。

しばらくして、警察がメディアを追い出し始めると、黒川は茂みにある植木鉢の横にうずくまって身を隠した。視線の約20メートル先には、高層階からの襲撃に備えて銃を構える警察の特殊部隊をとらえていた。そこへ、建物から複数の人が逃げてきた。荷物も持たず、靴も履かずに列をなして避難する女性たち。思わず立ち上がってシャッターを押した。すぐに警察官に外に閉め出された。

この事件は、ソマリアを拠点とするイスラム系武装勢力のアル・シャバブが起こしたテロだった。トランプ米大統領がエルサレムをイスラエルの「首都」と承認したことへの報復として、外国人が集まるナイロビ市内の高級ホテルなどを襲撃した。700人以上が避難し、死傷者は約50人にのぼったという。

受賞作「Nairobi DusitD2 Hotel Attack(ナイロビのデュシットD2ホテル襲撃)」はそうした状況下で撮った最後の一枚だった。黒川は「必死でシャッターを押したが、後から見ると、女性たちのおびえる様子と、銃を構える警察官の勇敢さのコントラストを描けていた。警察官が縦の線、女性たちの列とホテルの壁が横の線という構図でメリハリもついていた」と振り返る。

現場で2000枚ほど撮ったという写真のうち、受賞作は米紙ニューヨーク・タイムズやウォールストリート・ジャーナルの1面で大きく扱われた。黒川は、初めて自ら写真を選んで、WPPコンテストに応募したという。「世の中にまかり通っている不条理を伝えたい、写真一枚で社会を動かすことができるかもしれない、という気概をもって取り組んできた。人々の良心を呼び覚ますような写真を撮り続けたい」と話した。

60年を超える歴史がある世界報道写真(WPP)コンテストで、仏AFP通信の千葉康由さん(48)が大賞に選ばれました。日本人の大賞受賞は41年ぶりの快挙。その1枚を撮影した瞬間、何が起きていたのか。ケニア在住の千葉さんに電話取材で聞きました。

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■独学で世界の舞台へ

プロフィル

黒川大助(くろかわ・だいすけ)
1975年生まれ。神戸市出身。東京都内の通信会社勤務後、2005年にフリーランスのカメラマンに。06年、EPA通信のバンコク支局に勤務。07年から東京支局、10年から東アフリカ支局。現在は同支局チーフフォトグラファー(東アフリカ・インド洋担当)。

EPA通信の黒川大助(Daniel Irungu撮影)

高校、大学生活をカナダで送った黒川は、日本の通信会社に勤めたのち、29歳でフリーのカメラマンに転身する。幼いころ、父が持っていたベトナム戦争の写真にくぎづけになったことが忘れられない。「世の中ではすごいことが起きている」。10代のころは、1960〜70年代の米国を中心に、激動する世界の様子をおさめた写真集を買いあさった。

「自分の目で世界を見てみたい」。写真を学んだことはなかったが、黒川はタイとミャンマーの国境付近の内戦などを撮り続けた。2010年からEPA通信東アフリカ支局に赴任し、ソマリアやコンゴ、ケニアなど様々な紛争地やテロの現場に赴いてきた。現場では動画の撮影も求められるが、「映像は色や音、動きなど様々な要素が競合するが、写真はメッセージをじかに伝えやすい。一枚で心にバシッと残る」と写真にこだわる。

度重なる危険地域の取材は「平常心を保つこと」に注力してきた。「いつ撃たれるか分からない危険と常に隣り合わせ。目の前で起きていることへの恐怖心や複雑な感情に負けたら終わり」と話す。自らの命を守りながら、瞬時に構図を考えてシャッターチャンスを逃さない。高い集中力も求められ、肉体的にも精神的にもきつい仕事だ。心身のバランスを保つため、フィットネスジムやボクシングで身体を鍛えることも欠かさない。

マラリアにかかり、至近距離で催涙弾を撃たれたこともあるが、「人間の感情がむき出しになっている場面を世界の人に伝える使命がある」と現場に向かい続ける。それが「他者の痛みを知り、共感も生む」と信じている。

同業のパートナーと娘はパリで暮らす。受賞の報告を受けたときは、家族もナイロビに滞在していたという。アムステルダムで行われる予定だった授賞式は、娘の6歳の誕生日でもあった。

3月末から日本に一時帰国している。航空券を複数手配し、ようやく手に入った航空券でドーハ経由で戻ってきた。ナイロビがロックダウンのような状態になる寸前の便だったという。空港は同じように国外に出ようとする人であふれ、混乱を招いていたという。

しばらくは東京で過ごし、「猥雑なイメージ」の渋谷や新宿の街並みなどを写した。約6年ぶりの東京は以前にも増して閉塞感や不穏な雰囲気を感じ、「白黒写真でおさめたい」という気持ちになったという。このあとは京都を撮るつもりだ。

「報道写真を撮りたい一心で、この世界に飛び込んだ。海外に出る日本人は多くないと感じている。受賞したことが、躊躇している若い世代の背中を押すことができたらうれしい」と話している。