ルワンダ虐殺から30年②

前回、ルワンダ虐殺について、多数派フツと少数派ツチの民族対立が原因であり、加害者がフツで被害者がツチだとする通説を再考した神戸女学院大学国際学部の米川正子教授が、もう一つの通説である「国連の不介入」を検証する。

ルワンダ大虐殺で問題をはらむ四つの「通説」

多数派フツと少数派ツチ間の民族対立が原因で、フツの過激派がツチと穏健派フツを殺戮した「ツチに対するジェノサイド」だった(つまり加害者はフツで、犠牲者はツチである)→前回記事

大量殺戮が続く中、ルワンダに駐屯中の国連平和維持活動(PKO)部隊はその行為を止めなかった→今回の記事

当時の反政府勢力「ルワンダ愛国戦線(RPF)」のカガメ将軍(現ルワンダ⼤統領)がジェノサイドを止めた(そのため、ルワンド国内外で「救世主」と称えられている)

戦闘の敗者であるフツ主導のルワンダ旧政府やフツ民兵はRPFによる報復を恐れて、国外に逃れた

追加のPKO派遣と介入を拒んだ反政府勢力RPF

1994年にルワンダで殺戮が行われている中、国際社会が同国を「見捨てた」ことは、当時の国連PKO担当国連事務次長補で、その後、国連事務総長に就任したコフィ・アナン氏が1998年、ルワンダ訪問中に認めている。

1994年4月6日夜、ハビャリマナの⼤統領機が撃墜された翌日に、ベルギー兵⼠10人が殺害されたことを受けて、ベルギー政府は、PKOの国連ルワンダ支援団(UNAMIR)の主⼒であるベルギー軍の即時撤退を発表した。

4月21日、殺戮が続く中、UNAMIRの⼈員縮⼩に関する国連決議が下された。しかし8⽇後、⼤量のルワンダ⼈が国外に逃れ始めたため、当時のブトロス・ブトロス=ガーリ国連事務総⻑と国連安保理は、その大量移動がルワンダと近隣国などに不安定をもたらすことをおそれ、殺戮を⽌めなければならないことに同意した。そして国連はツチの⽂⺠保護のために、さらに強い任務を有する新しいPKOの派遣について議論し始めた。

しかし、翌⽇の4月30⽇、当時の反政府勢力「ルワンダ愛国戦線(RPF)」は新しいPKOの派遣に断固として反対する内容の書簡を国連に送った。それには、「国連の介入はとっくに過ぎた。ジェノサイドはほぼ終わった。政権の潜在的な犠牲者のほとんどは殺害されたか、逃亡した。(中略)この時点での国連の介⼊は、⼤量殺戮を⽌めることに役に⽴たない」と記されていた。

実際のところ当時のルワンダは、組織的な殺戮が行われている最中だった。

RPFの書簡が送られた同⽇、UNAMIRのカナダ出身のロメオ・ダレール司令官は、RPFを率いていたカガメ将軍(現ルワンダ⼤統領)から 「もし介⼊部隊をルワンダに派遣したら、我々は戦うからな」と脅かされた。

1994年5⽉以降、再創設されたUNAMIRが派遣されたものの、RPFからキガリ空港を含む国内の⼀部へのアクセスを拒否されたため、UNAMIRは⼗分に機能できなかった。

RPFが国連PKOに非協力的であったことは、ダレール司令官などさまざまなPKO要員が証言している。

UNAMIRの前身の国連ウガンダ・ルワンダ監視団(UNOMUR)は1993年、ウガンダとルワンダの国境に派遣されていたが、1990年にルワンダに侵攻して以来、同じ地域を支配していたRPFは、UNOMURの存在を煙たがっていた。RPFはUNOMURに対して、国境上空を監視する国連のヘリコプターに発砲すると脅迫し、ウガンダ軍もUNOMURの動きを様々な方法で制限しようとした。

RPFがUNOMURとの協⼒を拒否した理由は、RPFが使用していた武器の備蓄がウガンダにあったからだろう。それに加えて、UNAMIRが戦争に介⼊して終わらせることで、RPFが獲得すると確信していた勝利の機会が奪われることを恐れていた。英BBCドキュメンタリーで証言したカガメ氏の側近によると、カガメ氏は当時、ジェノサイドを⽌めることより、戦争に勝利して政権を奪取することに関心を抱いていた。

そのためか、ハビャリマナ大統領の暗殺直後に発足した新暫定政府が4⽉12⽇、RPFに休戦を提案したものの、カガメ氏の側近いわく、カガメ氏は拒否した。

RPFは国連PKOに非協力的だったものの、UNAMIRの存在を最大限に利用したようだ。

あるいは、ダレール司令官の上司や部下いわく、中立性に欠けた同司令官の影響力もあって、UNAMIRはRPFを支援していたという証言がある。

例えば、ダレール司令官はRPFにUNAMIRの車両の使用を許可し、それによってRPFは武器を輸送できた。特に⼤統領機撃墜に使用されたミサイルは、UNAMIRのおかげで輸送できたとも解釈できる。RPF元戦闘員によると、ミサイルはRPFが後⽅基地として使⽤していたウガンダからひそかに運び入れたものだったが、RPFは料理⽤の薪を収集するトラックの中にミサイルを隠し、そのRPFのトラックはUNAMIRの車両にエスコートされていた。

このように国連がジェノサイド阻止に有効な手立てを打てなかったのは、RPFが国連の任務遂行を困難にさせただけではなく、国連の中立性の問題もあったためで、国連の不介入は事実でないにもかかわらず、国連は「ジェノサイド中、介入しなかった」「見捨てた」という間違った罪責感を持ち続けている。

ルワンダ政府はその罪責感を土台に、あらゆる場で「ジェノサイド」を頻繁に公言するという「ジェノサイド・カード」を利用しながら、国際社会から同情を買い、多額の援助金を受け取ることに成功してきたと言えるだろう。

RPFの真の創設目的を検証する

ここで疑問が残る。なぜ政治的に脆弱性が高い難民で構成されたRPFがジェノサイドの終了後に政権を奪取し、そして国際社会で「ジェノサイド・カード」を行使するまでの影響力を持つようになったのだろうか。そのためにはRPFの創設目的を検証する必要がある。

【関連記事】ルワンダの虐殺をめぐる通説はどのように広まったのか、米川正子さんの論考を読む

RPFが1987年に結成された理由について、1959年の「社会革命」で祖国を逃れたツチ難民が「必要であれば武装でもって」ルワンダに帰還し、権力掌握することとして知られている。

フツだったハビャリマナ大統領がルワンダの土地不足を口実に、ツチ難民の帰還と受け入れを拒否していたと言われていたため、RPFが武装の必要性を主張した(ルワンダの面積は日本の四国より少し大きく、アフリカ大陸で人口密度が一番高い)。

しかしハビャリマナ氏は、特に1986年代以降、難民帰還を少しずつ計画し始めていたため、RPFの上記の主張は該当しない。

帰還の計画を進めていたのは、1986年にウガンダでクーデターを起こして軍事勝利をした反政府勢力の上層部がツチ難民で占められため、ハビャリマナ氏は同難民の軍事力に脅威を抱いたからだとされる。

帰還計画の一環として、ツチ難民の保護にあたっていた国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は1990年10月1日に、ツチ難民のルワンダ帰還を促進すために難民たちが祖国の状況を確認する短期訪問を企画していた。

が、それがキャンセルされたのは、同日、RPFがルワンダに侵攻したからだ。これは偶然ではなく、RPFは意図的にその予定を止めたのだろう。一般のツチ難民がUNHCR主催の帰還計画に参加してしまうと、RPFが主張した「武装帰還」(軍事侵攻)の必要性が弱まるからだ。

難民帰還以外に、RPFは、ルワンダの民主主義、および独裁者と言われたハビャリマナ政権からの解放という大義名分を挙げて、同国への軍事侵攻を正当化した。

しかしルワンダ政府は既に冷戦終結後、フランスの助言に従って複数政党制を導入し、民主化に取り組んでいたために、RPFの軍事侵攻の必要性はなかった。RPFが武装闘争に依存せざるを得なかったのは、民主的選挙で少数派ツチ主導のRPFが勝利できる可能性がなかったからだ。

ルワンダ国際犯罪法廷(ICTR)に提出されたスペイン裁判官の起訴状によると、RPFの真正の結成理由は下記の通りだ。

「最大数のフツを排除」し、そして「他の西側同盟国とともにツチと戦略的同盟を結び、まずルワンダを、次に大湖地域(ルワンダ、コンゴ、ブルンジ、ウガンダ、タンザニア)全体の住民を恐怖に陥れ、ツチの勢力圏を拡大するために、ザイール(現コンゴ)を支配し、影響力を持ち、そして侵略し、同国の非常に豊かな天然資源をツチの物として利用すること」。

これは、2008年、ルワンダとコンゴでの深刻な罪の責任者として訴追されたRPF幹部40人の起訴状に明記されている。

つまり起訴状の記述が事実なら、RPFがまだ反政府勢力だった1980年代後半に、あるいはその創設前に、西欧諸国から支援を受けて、コンゴ侵攻を計画していたことを意味する。それを実行するために、ルワンダで政権奪取の手段としてジェノサイドも計画したのではないかという疑いが残る。

そのジェノサイド後のRPFの軍事勝利はRPFにとってあくまでも中間点であり、その2年後に侵攻した隣国コンゴにおける豊富な資源が最終的な狙いだったことになる。

コンゴに飛び火した紛争と、RPFとの関係

コンゴの侵略を念頭に置いたRPF結成理由が明記された書類は、スペインの起訴状以外に存在しないだろう。

筆者は、スペイン判事と共に訴追に関わったスペイン人の弁護士に、RPF創設目的の情報源(RPF創設者が情報提供者なのか)をメールで聞いた。弁護士からの返答には直接的な回答はなく、「RPFの保護措置された証人が情報源で、判事は3年間の調査でこのような結論に達しました」と書かれていた。

本起訴状について、研究者やジャーナリストらの間で(少なくとも英仏日の言語で)十分に議論されておらず、RPFに批判的な者でさえ、その信憑性を疑う人もいる。

というのも、ルワンダが1996年にコンゴに侵攻したのは自国の安全保障上の理由だったという説が依然として強いからだろう。ルワンダのジェノサイド後に、その加害者とされた政府軍とフツ民兵が文民とともにコンゴに越境し、その際に設置された難民キャンプを、その後、RPFが政権を握るルワンダを攻撃する基地として使用したためだ。

起訴状の信憑性が高いと考える四つの理由

しかし筆者はスペインの起訴状の信憑性は大変高いと考える。その理由は4点ある。

第一に、起訴状の内容が現在まで、その通りに実行されてきたことだ。

1990年代に、RPFがルワンダとコンゴでそれぞれジェノサイドと特徴づけられる罪に関わり、それに伴って両国で政権が打倒されてRPF主導の新政権が設立され、ルワンダ政府(RPF)はコンゴの天然資源を不法に搾取してきた。現在も、同政府が創設・支援しているといわれる反政府勢力「M23」がコンゴ東部の住民を脅かし、殺害し、追放し続けている。

これが実現できたのは、特に米政府の支援があったからと言える。結果論として起きたというより、計画通りに実施されたと言った方が適切だろう。だからこそ、国際社会はコンゴ政府やノーベル平和賞受賞者デニ・ムクウェゲ医師の訴えに耳を傾けず(あるいは傾けているふりをしているだけで)、ルワンダが関与した可能性が報告されたコンゴ東部におけるジェノサイド行為を黙殺してきた。

【関連記事】ウクライナ侵攻の影で、黙殺されたルワンダによるコンゴ侵攻、ムクウェゲ医師の怒り

第二に、上記のように、1994年、フツ民兵がコンゴに越境したことでコンゴの治安が悪化したと知られているが、RPFはルワンダでのジェノサイド前にフツ民兵組織に潜入し、そのまま民兵と一緒にコンゴに越境し、そこで偽旗作戦を通して治安を悪化させたのだ。

大量のルワンダ住民がコンゴに越境したのは、RPFがウガンダ、タンザニアとブルンジとの国境を閉鎖したためだ。調査ジャーナリストのシャール・オナナ氏によると、このルワンダ人のコンゴへの大量脱出はRPFの軍事戦略であり、米国が支援するRPFのコンゴ侵略に沿って計画されたものだ。

第三に、1996年、ルワンダ軍がコンゴに侵攻した理由の一つが、迫害されたと言われるツチ系コンゴ人を救済するためだったと知られている。1994年の「ツチに対するジェノサイド」に次いで、コンゴにおけるツチ系住民のジェノサイドの防止が名目だった。が、ツチ系コンゴ人コミュニテイーいわく、彼らに対する迫害はなく、追放されることもなかった。「コンゴにおけるツチのジェノサイド防止」の名目が利用されただけで、ルワンダ政府の目的は前述のように、コンゴ東部の天然資源の略奪だった。

第四に、筆者が、現在、難民として第三国定住している、RPFにリクルートされたあるツチ系コンゴ人に聞き取り調査をしたところ、RPFが1980年代後半からコンゴへの侵攻を計画していたことが確認された。そのコンゴ人いわく、1988年、コンゴ東部の南キブ州の郊外で開催された、ツチ系コンゴ人のみが集められた機密会議で、RPFのリーダーは以下のことを伝えた。神様はツチが支配者になるように創ったこと。大湖地域における政治的・軍事的権力を掌握するためにツチの軍事侵攻が計画立てられ、それによって将来、ツチの支配を継続させ、自分たちを豊かな生活を営めること。この目標を達成するために、世界中のツチの団結が鍵であること。そして、ツチ系コンゴ人が約5年以内にコンゴで権力を掌握し、RPFはそのツチによるコンゴの統治を助けることだ。

このリクルートと同時期に、ツチに関する啓発活動が開始された。

筆者の聞き取り調査によると、1990年前後に、コンゴ東部におけるツチ系コンゴ人居住地域の住民の間で、ツチの未来に貢献する必要性について話がされるようになった。また、当時、上記の住民がRPFのリクルートを促進していたツチ系ウガンダ人から受け取った「ツチの十戒」には、以下のことが明記されていた。ツチ全員が協力して中央・東アフリカ全域に広大な帝国を樹立し、フツや他のバントゥー(アフリカの民族)を支配すべきであること、ツチは国籍を変更できても、民族をフツに変えることはできないことなどだ。

国際社会は、1994年の「ツチに対するジェノサイド」にショックを受けるあまり、RPFがその前から準備していたと考えられるコンゴ侵攻に、注意を払っていなかったとも言える。そして前述のように、米政府の支援が大湖地域の政情に大きな影響を与えた。それについて、次回、解説したい。

参考文献

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