戦後初の3冠王となり、指導者としても3度の日本一に輝いた名将、野村克也さんが11日午前3時半、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天を指揮。「月見草」「生涯一捕手」「ID野球」「再生工場」に“ぼやき節”。多くのフレーズに彩られた野球人生は日本のプロ野球史に多大な足跡を残した。

 野村さんは89年オフにヤクルトの監督に就任。データを重視する「ID野球」を掲げ、92年に14年ぶりのV奪回を成し遂げた。「巨人戦は特別だ」と選手に意識を植え付け、他球団で結果の出なかった選手を開花させる手腕は「再生工場」と称された。4度のリーグ優勝、3度の日本一を成し遂げるなど、黄金時代を築き上げた。

 90年、周囲が不安視していた“メガネをかけた捕手”古田敦也氏を正捕手に抜てきした。その一番弟子はこの日、古巣の2軍の宮崎・西都キャンプを訪問した。「プロに入って1年目から野村監督だったので、それは本当に幸運なことでした。すごいリーダーだった」と出会いに感謝。常に怒られ役で「細かいことはいろいろと言われましたけど、この厳しさについていけば必ず成長できると思えた。実際、当時の常勝軍団と言われた西武に勝つところまで強くしてくれた。細かいことを積み重ねていけば大きなことができるんだなと」と振り返った。

 温厚なイメージが強い野村さんだが、激情家としての顔も持っていた。大黒柱として黄金期を支えた楽天の石井GMは都内で取材に応対。午後には都内の自宅を弔問した。20歳だった93、94年ごろにKOされた時。「『お前、俺をなめているのか』。普段は動きも遅くて穏やかに話す人なのに、あの時だけは動きも速くて、見たことない形相で聞いたこともない言葉遣いだった」と仰天した。野村さんが蹴った椅子も約5メートル飛んだといい「僕も野球に対する考え方が変わった。あの椅子の飛距離とともに一生忘れません」と独特の表現で故人をしのんだ。

 昨季までヤクルトのヘッドコーチを務めた宮本慎也氏は、くしくも沖縄・浦添で古巣のキャンプを訪問。入団時は守備専門の「自衛隊」と揶揄(やゆ)されたが、努力を重ねて名球会入りも果たした。「野村監督が辞める年(98年)の残り数試合でホームランを打ってかえって、ほめてくれるのかなと思ったら『勘違いするなよ』と。最後の最後までほめないんだなって。厳しい中に優しさがありました」と懐かしんだ。

 「いつも『はよ監督せえ』と言葉をいただいていた。残念ながらそういう姿を見せられなかった」と悔やんだが、野村さんが築いた野球は20年以上が過ぎた今もヤクルトに息づいている。