南海の強打の捕手として65年には戦後初の3冠王に輝き、南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野球評論家の野村克也氏が11日死去した。84歳だった。

 現役時代の野村さんは、強打の捕手として日本球界を代表するスラッガーとして君臨していた。一方で頭脳派捕手としても知られ、ベストナインで捕手部門最多の計19回は、他ポジション含む誰よりも多い受賞回数を誇った超スターでもあった。

 彼の最大のセールスポイントは頑健な体で100試合以上出場は18年連続含め21シーズン(谷繁は18年連続20シーズン)。150試合制だった1963年は全イニング出場した上に33日間もあったダブルヘッダーの、特に第2試合に打率3割3分7厘、17本塁打(第1試合は2割2分9厘、7本)の成績を残した。

 こんな事もあった。1966年8月28日の神宮球場で東映とのダブルヘッダー第1試合、2回に打席に立ち、新人の森安敏明投手の内角への投球が左耳の下に直撃、その場に昏倒した。ところが、ベンチで手当を受けた後、また試合に出た。この試合に11対0で大勝しただけに、第2試合には休ませるのかと思ったら、第2試合も「4番・捕手」で最後までフル出場し、改めてタフな体に驚かされた。

 通算657本塁打を方向別に見ると、左翼が549本で83・6%。(868本の王貞治が引っ張った右翼、右中間合計で86・4%)。逆方向のスタンドにたたき込んだのは66本で10・0%(王は8・8%)と王同様にプルヒッターだったのが伺える。

 1961年から66年までの右翼席への一発は5→15→11→5→6→9と計51本もある。それ以前もそれ以降も3本以下と少なかっただけに、この6年間では1962年がパ・リーグ新記録、63年は日本新記録、65年は三冠王に結びつけた。

 捕手にとって試合前に、相手球団の主砲の打撃練習を偵察するのは必須だが、シュート打ちを山内一弘から、外角球を右翼スタンドへ運ぶ技術を中西太から“盗んで”花開く。しかし、32歳を超えてからは右越えに運ぶパワーが衰え激減。中でも1971年から73年にかけ“80本連続左翼方向本塁打”という怪記録も作った。

 バットの握りは、1965年オフに急死した蔭山和夫コーチの指導で、グリップエンドから半握りほど余らせバットコントロールの精度を上げたという(当時の長距離砲は王貞治、長嶋茂雄も同じ握りだ)。35歳以降も、80打点以上5度と勝負強さを見せつける。通算記録で本塁打、打点は、ともに一度は歴代首位に立ちながら王に抜かれた。

 特に本塁打は、王の全盛期だった1973年8月に抜きつ抜かれつの大接戦を演じた。

 日本人初の通算400号を放った1968年7月12日。「いつかは(本塁打記録は)ワンちゃん(王)に抜かれるやろ。だから、オレが多く打てば、ワンちゃんの記録もすごいものになるやろ」と答えている。現役引退も同じ1980年だったが、王が大リーグ記録を上回る868本も打った裏側には、野村の息の長い野球人生があったからこそではないだろうか。