新日本プロレスのタイガー服部レフェリー(74)が19日の後楽園ホール大会でおよそ44年に及ぶレフェリー生活から引退する。明大レスリング部時代に全日本選手権優勝など輝かしい実績を残し、1970年代に米国でプロレス界に飛び込んだ。服部氏自身によると76年にレフェリーとしてのキャリアがスタート。以来、全日本、新日本、ジャパンプロレスでレフェリーを務め、90年代に入るとメインレフェリーとして新日本の黄金時代を支えてきた。新日本は、長年の功績をたたえ「引退記念大会」を19日に後楽園で開催。記念の興行を前に「WEB報知」では服部レフェリーを独占インタビュー。「タイガー服部ヒストリー」と題し19日の引退興行当日まで連載します。第3回目は「レフェリーデビュー…ハルク・ホーガン対ウイレム・ルスカ」。

 ハルク・ホーガンがプロレスデビューした1977年。エディ・グラハムが主宰するプロレスのプロモート会社「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」の仕事に携わっていた服部正男は、この年の前年にレフェリーとしてデビューした。

 「初めてレフェリーをやったのがいつかは覚えてないんだけど、1976年ごろだったと思うんだけど…ホーガンがデビューしたころにはレフェリーをやっていたよ。ヒロ・マツダさんの道場で昼間は柔道を教えながら、夜は近場で大きなショーじゃない時に観客が400人ぐらいの会場でレフェリーをやってたよ」

 グラハム、ヒロ・マツダからは、レフェリーとしての教えや指導など特になかったという。

 「その前に道場でプロレスラーがスパーリングをやっている時にレフェリーをやって練習したり、試合を見ていたから何となく動き方は分かっていたけど、今までやったことないわけだから、その時はうまくなかったよ(笑)」

 レフェリーとしてのキャリアがスタートした当時、忘れられない試合がある。それがホーガンとウィレム・ルスカの一戦だ。ルスカは72年のミュンヘン五輪で無差別級と重量級の2階級で金メダルを獲得したオランダの柔道家で76年2月6日に新日本プロレスに参戦しアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」で対決した。この試合は、猪木が推進した「異種格闘技戦」の最初の試合で以後、ムハメド・アリ、ザ・モンスターマン、ウイリー・ウイリアムスらとの様々な格闘家との試合で一時代を築いた。

 ルスカは、猪木に敗れた後にプロレスラーに転向。76年から77年にかけて、服部がいたフロリダにプロレス修業に来ていた。

 「ルスカは、プロレスに転向した時に猪木さんがフロリダに送ってきたんだよね。その時にデビュー当時だったホーガンとフロリダのフォート・ローダテールで試合をやったんだよ。その試合のレフェリーをしたんだけど、レフェリーになった当時で言えばその試合を一番覚えているよ」

 柔道からプロレスに転向したルスカは、プロレスに馴染めず試合で観客を沸かせることは苦労していたという。一方、ホーガンは当時から輝いていたことを服部は覚えている。

 「ホーガンは、最初から人と違うものを持っていたよ。力量とか素質というより、彼のプロレスを見た時に“あっ、これは凄いヤツだ”って思ったよ。カリスマ性は人の10倍ぐらいあったし、見ただけで分かったね。それが何かはうまく言葉にできないんだけど、やっぱり体から受ける匂いなんだろうね。オーラだよ」

 フロリダでデビューしたホーガンは、後に新日本プロレスに参戦し83年6月2日に蔵前国技館で行われた第1回IWGP決勝戦で猪木をKOするなど日本でトップレスラーとなる。そして、米国でもAWA、さらにWWF(現WWE)で頂点を極め、カリスマとなった。その世界中の観客を引きつけるオーラは、デビュー当時から輝きを放っていた。

 「今もホーガンに会えば、オレは本名の“テリー”って呼ぶし、あいつはオレのことを“マサオ”って呼ぶよ」

 レフェリーとしてのキャリアがスタートした当時。日本から修業に来たプロレスラーと出会う。それが長州力と天龍源一郎だった。(続く。敬称略。取材・構成 福留 崇広)