2008年北京五輪で、斎藤春香監督(50)率いる女子ソフトボール日本代表が初の金メダルに輝いた。のちに「上野の413球」と呼ばれた、当時26歳のエース・上野由岐子投手(37)による熱投は列島に感動を呼んだ。指揮官は決勝の約1年半前から「3連投もある」と思いを伝え、鉄腕と心中覚悟で決勝に挑んだ。なかなか届かなかった頂点、12年ロンドン五輪からは競技種目外になるなど冬の時代も経て、ソフトボールは東京で3大会ぶりに五輪に戻ってくる。(取材・構成=宮下 京香)

 宿敵・米国との決勝。3―1のリードで迎えた最終回2死一塁、斎藤は静かにマウンドを見守った。準決勝から2日間で3試合、上野が投じた413球目。疲労が蓄積し、MAX119キロ(当時)の速球は投げられないエースが最後に選んだのは、北京五輪のために用意した新球シュートだった。外角いっぱいを狙うと、米国の2番打者は三ゴロ。一塁手の佐藤理恵がウィニングボールをつかんでゲームセット。上野を中心にナインの輪ができ、人さし指を空に突き上げた。日本ソフトボール界の悲願、初の金メダルが現実となった。

 夢が結実した瞬間、一塁ベンチの斎藤は思わず「ふ〜」と息を吐いた。「応援してくれた方、過去に挑戦したオリンピアン、スタッフ…みんなの願い。大きな期待も感じていたので、うれしいよりもホッとした気持ちが強かった」。2012年ロンドン五輪でソフトボールが除外されることも決まっていたため“ラストチャンス”でもあった。重圧から解放され、選手の手で胴上げされたことは昨日のように覚えている。

 決戦前夜、斎藤の腹はエースと「心中する」と決まっていた。準決勝、敗者復活を兼ねた3位決定戦と318球を投げた右腕には「確かに疲労が見えた。坂井(寛子)投手を起用するプランもあった」。だが、選手として1996年アトランタから3大会連続で五輪を経験し、大舞台の戦い方を知る斎藤は「様々なパターンを考えた上で上野投手に『頼んだぞ』と。連投させることが最善だと考えた」。こうして「上野の413球」の伝説は生まれた。

 実は、3連投は決勝戦の約1年半前の06年12月、日本代表監督就任から持っていた秘策だった。「監督になったとき、五輪決勝のビジョンをはっきりと持っていました。上野投手は超一流の心技体を持つ最高レベルの選手。いろいろと考えた結果、『(五輪で)3連投もある。それを考えてやっていこう』と伝えました。上野投手も五輪までずっとその気持ちで戦ってくれたと思います」

 球技では76年モントリオール五輪女子バレーボール以来の優勝だった。決勝はNHKで生中継され、平均視聴率は30・6%を記録。ナインは一躍、国民的ヒロインとなった。「選手村に帰ってからもありがたいことに、たくさん取材をしていただきました。最高視聴率のことも聞かされて、それが一番うれしかった」

 斎藤の喜びの裏には、金メダルに届かなかった現役時代の苦労と、選手に寄り添ったチーム作りがあった。

(敬称略、つづく)

 ◆日本の北京五輪 1次リーグ(L)初戦は上野が完投して4―3でオーストラリアを撃破。4戦目の米国戦は上野温存で0―7で5回コールド負け。1次Lは6勝1敗の2位通過。準決勝・米国戦は上野が延長9回、147球を完投も1―4で敗戦。同日の3位決定戦は上野が延長12回、171球完投でオーストラリアを4―3で下した。翌日の決勝も先発・上野が、7回完投で米国に3―1で勝ち優勝した。

 ◆斎藤 春香(さいとう・はるか)1970年3月14日、青森・弘前市生まれ。50歳。88年に弘前中央高卒業後、実業団の日立に入団。96年アトランタで五輪初出場。2000年シドニー五輪銀、04年アテネで銅メダルを獲得し、同年に現役引退。06〜11年女子日本代表監督。08年北京五輪で初の金メダル獲得。弘前市教育委での勤務を経て、19年日立に復帰して監督に就任。173センチ。