2016年の設立以降、わずか3年で急成長し、最高級の和牛を世界に広めているWAGYUMAFIA。世界各国でエンターテインメントとともに和牛を味わうポップアップイベントを開催しながら、高級レストランに和牛を輸出している。

 同時に、国内外で尾崎牛や神戸牛を提供するWAGYUMAFIAブランドの高級レストランなどを展開するほか、19年10月には新業態のYAKINIKUMAFIAもオープンした。また19年には和牛専門ラーメン店「MASHI NO MASHI HONG KONG」を香港にオープンしている。さらに20年1月に「MASHI NO MASHI TOKYO」を東京・六本木にオープン。今後も世界中の都市に店舗を広げる計画だ。

 代表取締役の浜田寿人は、和牛の世界的なサプライヤーであり、和牛のシェフとしても世界各国で知られている。このシリーズでは浜田が挫折と失敗を繰り返しながらも、いかにして「WAGYUMAFIA」のビジネスモデルを構築したのかを、3回にわたって届けていく。

 前編では、若くして映画会社を起業し、東京とシンガポールでレストランを展開するも、12年には会社を整理するまでに追い込まれた秘話を明かしてもらった。中編では共同設立者の“ホリエモン”こと堀江貴文との再会と、WAGYUMAFIAのブランディングの秘密に迫る。

●クールジャパン機構から「門前払い」

 12年夏、浜田は10年以上経営したカフェグルーヴの整理を進めながら、再び最高級和牛である尾崎牛の輸出を始めようとしていた。しかし、シンガポールに出店していたステーキハウスを閉めたこともあり、ほとんどゼロからのスタートだった。

 「会社の整理をしながら、一方で和牛の業界と交渉もしなければならず、余裕は全くありませんでした。本当に徒手空拳でした。どうにもならない期間が1年半くらい続いたと思います」

 浜田は、和牛についてあらためて学ぶため、和牛に関わる全ての業態で仕事を体験した。精肉所で働くことから始まり、焼肉屋でのアルバイト、と場での修業、フードトラックで肉料理の販売もした。当然、無給での仕事もあったが、全て勉強のためだった。

 「新しいことをするときには、必ず全業態を学びます。恐らく業務の実体験がないと、自分の言葉に変えられないからだと思います」

 この年、尾崎牛の輸出を始めたものの、まだ販路はほとんどなかった。浜田は、和牛を世界に輸出するからと説明してクールジャパン機構に支援を要請した。だが、全く相手にされなかったという。

 「和牛を世界に輸出するすばらしい事業だからお金をくださいと言いに行きました。今でもよく覚えていますが、担当者からは『ニッポンハムや伊藤ハムができないのに、どうして浜田さんみたいな個人ができるんですか。証明してから来てください』と言われました。門前払いのようなものですね。でも役人から見たら、確かにそうだったのでしょう。それで、証明してやろうと思って、ヨーロッパ(欧州)への輸出を始めました」

 国内で本格的に業界の協力を取り付けて輸出することができたのは、兵庫県のエスフーズ社長の村上真之助との出会いがあったからだった。浜田は「和牛に懸(か)けたい」と言って輸出に協力してもらえるよう村上を説得。3カ月が経(た)って「お前みたいな新しいやつも業界には必要だ」と言ってくれ、和牛の供給を受けての輸出が可能になった。

 このころ、牛肉を輸出する環境にも変化が訪れる。日本では10年に牛や豚などに口蹄疫が流行したことによって、29万7808頭の家畜が殺処分された。同時に、多くの国が日本からの牛や豚などの輸出を禁止した。それが、14年6月にヨーロッパで解禁されることになったのだ。

 解禁されるとすぐに、浜田はドイツの企業と組んで最高級の神戸牛と尾崎牛の輸出を始めた。しかし、相手の企業からは「神戸牛は他のところからも買える。ヨーロッパの独占権利をくれればコミットする」と言われてしまう。独占権利を渡せるはずはなく、輸出は半年ほどで頓挫。また振り出しに戻ってしまった。

●一筋の光から見えた「WAGYUMAFIA」の構想

 浜田がドイツの企業と取引をする少し前の13年3月、いわゆるライブドア事件によって刑務所に服役していた堀江が出所する。浜田は、共通の知人を介して堀江との縁が続いていた。

 実は堀江が収監される11年6月20日の前日、浜田は堀江と会っていて、シンガポールで和牛を提供するレストランをやりたいと相談したという。

 「一緒にやらないかみたいな話をしました。でも彼は翌日から刑務所にいくわけですから、それどころじゃないですよね。この時点では全く興味をもっていなかったと思います」

 その後、浜田はある知人から業界に詳しいデンマーク人を紹介された。彼が住むマヨルカ島まで会いにいくと、ロンドンの高級ホテルや高級レストランが集まる地区、メイフェアに行くように勧められた。その縁で、本格的な輸出が始まることになる。

 「彼から『ドイツと仕事をしても駄目だ。ロンドンのメイフェアに全ての富が集まっているので、メイフェアだけで完結させろ。ヨーロッパはメイフェアを押さえれば成功できる』と言われました。メイフェアに行くと、ステーキチェーン「MASH」を経営しているデンマーク出身の社長を紹介されて、『ちょうど和牛を探していた』という話になり、契約を結ぶことができました。ここから大きな取引に発展しました」

 輸出が始まったものの、「MASH」の担当者からは「和牛そのもののブランディングができていないのではないか」と指摘された。海外では、オーストラリア(豪州)産の交雑種も和牛と呼ばれている。神戸牛もいろいろなところから入ってくるので、何か違う名前を考えた方がいいと言われた。

 さらにMASHの社長からも、和牛についてのメディア対応や、調理もしてもらえないかと打診を受けた。最初は裏方として輸出の仕組みだけを作るつもりだったが、浜田は自分が前面に出ることも考えるようになった。

 浜田はしばらくの間考え続けた。考え抜いた末に出てきた言葉。それが「WAGYUMAFIA」だった。

 「ある瞬間にWAGYUMAFIAという言葉が浮かびました。もともとITや映画の会社を経営していましたから、IT業界でマフィアといえば、PayPalマフィアやAmazonマフィアなど、企業から独立した優秀な人材とネットワークのことを指します。

 名前を考えるときに重要だと考えていたのは、「KOBE BEEF(神戸ビーフ)」よりも強い言葉でなければ駄目だということです。和牛以上神戸ビーフ未満の言葉では、和牛の頂点にはいけないと思いました。それと、海外の人にも分かりやすいコンセプトにするには、1秒かあるいは0.5秒くらいで瞬時に分かる名前にする必要があります。あえて横文字にして、海外の人たちの意識を変えたいと思いました。

 カフェグルーヴを経営していたとき、あるラジオ番組に出演したら、司会者に『何をやっている会社なんですか』と聞かれたことがあります。いろいろやっていますと答えると、『一言で言えない会社は潰(つぶ)れますよ』と言われました。嫌な思い出ですが、実際に潰れてしまったので頭に残っています。一言で分かる強い言葉を意識した結果、WAGYUMAFIAにたどりつきました」

●きっかけは堀江と始めた和牛料理

 WAGYUMAFIAという言葉は浮かんだものの、すぐには使わなかった。そのコンセプトがより具体的になるのは、堀江と一緒に料理をするようになってからだった。

 「彼は出所して、以前住んでいたところには泊まれなくなったので、ホテル暮らしが始まりました。キッチンがないことが不満だったようなので、わが家に呼んで料理を振る舞ったら、すごく喜びました。

 僕はもともと料理が好きで、家のキッチンはプロ用の設備にしていました。料理の原点は子どものころ、海外で暮らしていたときの母の手料理です。大学教授だった父の給料はそれほど多くはないですから、マレーシアでもオーストラリアでも、知人が家に来るときには市場で現地の食材を買って、母が料理を振る舞っていました。それを見て、自分でも料理をするようになりました。

 彼も料理をしたいというので、スタジオを借りて一緒に料理をするようになり、そのときにどうせなら和牛の料理に絞りたいと提案しました。和牛とフレンチ、和牛と香辛料、和牛と米、和牛と麺など、和牛×●●といったように毎月テーマを決めて20回くらいやったことが、その後につながったと思います」

 堀江との料理は1年半ほど続き、クックパッドの本社でも実施した。すると15年11月、そのうわさを聞きつけた京都・祇園にある期間限定の会員制レストラン「空」から、オープニングシェフとして声がかかった。

 浜田はその話を聞いて初めて、あたためていたWAGYUMAFIAのアイデアを形にして、堀江と2人のユニットとしてデビューしようと考えた。お披露目の日は16年3月28日。それまでの半年弱の間、WAGYUMAFIAのコンセプトを練り上げ始めた。 

 「ユニットとしてやるなら、世界の料理と和牛をコラボして、DJをして、音楽のようにマッシュアップしながら料理ができたらいいなと考えました。イメージしたのはフランスのデュオのDaft Punk(ダフト・パンク)です。ダフト・パンクの侍シェフ版をやろうと、ユニフォームのデザインや世界観を作っていきました。ユニフォームができて、祇園でジャケット写真を撮影しました。

 ユニフォームは(人気ロックバンドの)ONE OK ROCKのユニフォームを手掛けるデザイナー丸本達彦を、(ONE OK ROCKの)ボーカルのTakaから紹介してもらいました。ユニフォームができて、祇園でジャケット写真を撮影しましたね。

 WAGYUMAFIAのロゴは、書家の岡西佑奈に書いてもらいました。墨で書かれた、若干の女性らしさも入った文字は、一目見て日本のものだと分かるものができたと思います。もともとブランディングは自分がやってきた仕事です。新しいブランドを作るために、これまでとは違う全く新しいチームでWAGYUMAFIAを作り上げていきました」

●「WAGYUMAFIA」で世界一を目指す

 「空」で開催されたイベントでは、誰も見たことのない食のエンターテインメントショーが繰り広げられた。カウンターキッチンに立つ浜田と堀江が、最高級の和牛を使った料理を次々と作っていく。和牛を生地に練り込んだクロワッサンや和牛のラーメンなど、今までの和牛料理になかったメニューも提案した。

 「このときのパフォーマンスは、今やっていることが凝縮されたような内容です。イベント自体には儲(もう)けもなく、店舗を作ることも全く考えていませんでしたね。それでも和牛をPRできて、世界中のシェフが和牛を使ってくれたらいいなと考えて、世界ツアーを始めました」

 その後はヨーロッパやアメリカ(米国)を始め、アジア、中東も含めた各都市で、有名シェフとともに和牛料理のポップアップイベントを開催した。イベントは16年3月から19年9月までの間で85都市に及んでいる。

 あわせて、イベントで知り合ったシェフや関係者のレストランに、最高級の尾崎牛や神戸牛を卸すようになった。輸出する国は徐々に増えていくようになる。

 ここでWAGYUMAFIAに一つの疑問が湧く――。なぜ堀江がWAGYUMAFIAに注力するようになったのかという疑問だ。もともと堀江は、和牛にそれほど興味を示していなかった。また、飲食は儲からないと思っていたようで、自分の名前が商売に利用されることには慎重だったようだ。浜田に、堀江が一緒にやるようになった背景を聞いてみた。

 「彼とは2つのことを一緒に始めました。一つがトライアスロンで、もう一つが料理です。最初に『和牛一本で勝負したい』と話したときは、全くピンとこなかったみたいで、『儲(もう)かる気がしない』と言われました。今だと信じられないですよね(笑)。

 彼から『何でやりたいの』と聞かれて、『俺はもう世界一しか興味がない。人生の中で一度は世界一をとってみたい。それが和牛なんだ』と答えました。おそらく、その言葉が少し彼に響いたのではないでしょうか。半年後に『堀江がテレビで和牛の話をしている』と誰かから聞きました。祇園のプロジェクトの話をもってきたのも彼です。それからは一緒に世界を飛び回っています」

●起死回生か 再びレストランをオープン

 浜田は「空」のイベントをきっかけに、会社名をVIVA JAPANからWAGYUMAFIAに変更した。しかし、VIVA JAPANに関係していた人たちからは、世界ツアーを始めた浜田に対して「会社は大丈夫なのか」と不安視する声が上がっていた。

 「空」のイベントの直後、浜田のもとにPR会社「ベクトル」社長の西江肇司から電話がかかってきた。その内容は、このままではWAGYUMAFIAはうまくいかないので、和牛でレストランを開いた方がいいというものだった。ちょうどこのころ「串カツ田中」や「いきなりステーキ」などが急成長を遂げていた。しかし浜田は「嫌です」といったん断ったという。

 「西江さんからは絶対にやったほうがいいと言われましたが、僕はカフェグルーヴでフレンチレストランを経営して、全く儲からずに大変だった実体験があるので、やりたいとは思いませんでした。まだ資金に余裕もなかったし、レストランを経営していた他の役員からは『自分たちも大変だし、浜ちゃんも大変な思いをしただろう。また素人考えでレストランをやってもうまくいかない。輸出の仕組みを広げた方がいい』と言われていましたから。

 それでも西江さんからは強く説得されました。ある日、西江さんから電話がかかってきて、『俺もPR会社を作るときに、先輩からは素人にPR会社ができるわけがないと反対された。でも今は日本一のPR会社になっている。俺だって焼肉屋の1軒くらいできるよ』と、2時間説得されたんです。そして『お前と付き合ってきた俺の半年を返せ』と言われたのが響きました。

 西江さんは僕が持っているクリエイティブプロデュース能力を信じてくれました。西江さんが強く背中を押してくれたおかげで、店舗を作ることを決めたようなものです。今考えれば、西江さんは本当に僕の恩人ですし、心から感謝しています。ただ、当初は2店舗同時に出すようにと言われていましたが、1店舗に集中する形でスタートすることにしました」

 一方の堀江は、飲食店に協力する気はなかった。本当においしい店が探せるグルメサービスの「テリヤキ」をプロデュースをしていたこともあり、自身の店を持つことによって中立性を維持できなくなることや、レピュテーション・マネジメント的に「ホリエモンの店が……」と言われることも嫌がったそうだ。開業資金を募ったクラウドファンディングには、わざわざ「堀江貴文はWAGYUMAFIAの事業には関係ありません」と書かれていた。

 店舗には東京・赤坂の雑居ビルを借りた。最初は焼肉の店舗にするつもりだったが、テナントの致命的な電気容量不足のために焼肉の店舗にするのは難しいことが発覚した。そこで考えたのが、高級肉割烹のWAGYUMAFIAだった。京都で堀江と実施した最初のポップアップでの和牛割烹料理を、新たな店舗で再現しようとしたのだ。参加してくれたのは、フードトラックにも一緒に立ってくれた和牛卸先の焼肉シェフ永山悟志だった。

 この構想にはスタッフからもポジティブな意見が出て、16年6月にプレオープン。9月にグランドオープンした。しかし、国内の客にはなかなか受け入れられなかった。オープン当初は、客がほとんど来なかったのだ。ここから唯一無二のブランドWAGYUMAFIAの快進撃が始まることになる。(関連記事【後編】「WAGYUMAFIA」 代表・浜田寿人が語る快進撃の秘密 「2万円の高級カツサンド」をいかにして“世界一”にしたのか、に続く)

(フリーライター 田中圭太郎)