撮り直しで巷(ちまた)の話題となった大河ドラマ「麒麟がくる」(長谷川博己主演)は、1月19日から放送開始だ。主人公・明智光秀は、「裏切り」の三文字が付きまとい大方のイメージは悪い。だが、足利将軍の権威が失墜した戦国時代は文字通り「下剋上」の時代であり、天下人を目指す人物が登場してもおかしくはなかった。武家の最高位といえば「征夷大将軍」であるが、光秀も本能寺の変の後に、実は将軍宣下を受けていたとする説もある。

 これまで「花の乱」や「軍師 官兵衛」など14作品のNHK大河ドラマの時代考証を担当してきた著者による異色の人物日本史、近刊『征夷大将軍になり損ねた男たち――トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(二木謙一編著、ウェッジ刊)では、光秀をはじめ、人望、血統、派閥、不運、病魔、讒言(ざんげん)などの理由で、将軍になり損なった47人の人物をクローズアップ。どの事例も歴史ファンに限らず、組織の中に生き、閉塞感漂う時代に好機を見いだしたいビジネスパーソンにも通じることばかりだ。

 この連載では大河ドラマに出演する人物の中から、まずあえて将軍の座に就かなかった織田信長について取り上げる。

●着々と天下布武に向かう戦国の風雲児

 織田信長は、永禄3年(1560)5月に、駿河の戦国大名今川義元を桶狭間の戦いで討ち取ったことで、前途が大きく開けた。

 永禄10年には美濃を併合して「天下布武(てんかふぶ)」の印を用いるようになり、翌永禄11年9月7日には、13代将軍義輝の弟義昭を擁して上洛の軍を起こした。南近江の六角氏を破り、京の三好三人衆の軍勢を駆逐し、9月26日に義昭とともに入京した。

 10月には義昭が15代将軍の座に就き、以後の信長は義昭を傀儡(かいらい)として利用していった。元亀元年(1570)6月に、織田・徳川の連合軍は姉川の合戦で浅井・朝倉の連合軍を破り、元亀2年9月には比叡山を焼き討ちして着々と支配地を拡大していった。将軍足利義昭は信長の傀儡にあきたらず、信長と敵対するようになった。信長は元亀4年の槇島城の戦いに勝利して義昭を畿内から追放し、室町幕府は実質的に滅亡した。

 しかし、足利義昭は征夷大将軍を解官されたわけではなく、信長の勢力圏外では依然として足利将軍としての権威を有していた。

 天正3年(1575)に、織田・徳川の連合軍は長篠の戦いで武田勝頼に勝利すると、信長は右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始した。

 天正8年、長きにわたった大坂の石山本願寺との石山合戦に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃えを行って、その勢威を誇示している。天正10年には、長篠の戦いで壊滅的な打撃を与えていた武田勝頼を滅ぼす甲州征伐を行い、武田勝頼を天目山で自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを従属させるようになった。

●天下布武の過程であえて将軍を選ばなかった信長

 信長の父織田信秀は朝廷に献金をして備後守や三河守の官を得ていたが、信長は尾張時代には上総介を自称し、桶狭間で今川義元を破った後は尾張守を称していたが、朝廷より任官を受けたものではなかった。

 信長は足利義昭を奉じて上洛した後、室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いたが、弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじていた。

 信長は高い官位は必要ないという合理的な考えの持ち主であるが、朝廷としては、信長に官位を与えて公家組織に組み込まないことには、自らの権威が失われてしまうため、足利義昭の追放後には信長の官位を急激に上昇させた。

 信長は古い権威を嫌ったが、天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取って利用していた。戦況が不利になるたびに、朝廷に仲介を求めて窮地を脱することも多かった。

 信長は、天正2年に参議に任官してから、わずか3年で従二位・右大臣に昇進している。 右大臣の任官は武家では源実朝以来で、これより上位の官職に任官した武家では太政大臣に平清盛と足利義満、左大臣には足利義教と足利義政のみだった。

 しかし、信長は天正6年4月に全ての官位を返上し、位階を持ちながら官職についていない散位となった。信長は四海の統一後に登用の勅命に応じたいとしていた。

●朝廷から打診のあった太政大臣・関白・将軍の官位

 朝廷では信長の任官が問題になった。朝廷は、天正9年に信長に左大臣への就任を要請したが、信長が正親町天皇の譲位を条件としたとされ、結局は実現しなかった。

 また、天正10年3月に甲州征伐で甲斐武田氏を滅ぼし、小田原の北条氏も実質的に信長に従属したことから、朝廷では信長が関東をも平定したと解釈した。

 そこで、朝廷では信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに、信長の望みによって任ずるという「三職推任」の構想が持ち上がった。

 5月には、武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代村井貞勝の邸を訪れ、二人の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この件について勧修寺晴豊は、日記『晴豊公記』に記している。だが、この話し合いで出た信長への三職推任が、朝廷側からの提案なのか信長側からかは不明である。どちらが提案したかで、信長が朝廷をどのように扱おうとしていたかを知るには重大なものになる。

 すでに信長は政権を立てており、朝廷の一員となって政権を樹立する必要はなかった。 朝廷はすでに政治に関わるという発想は放棄しているが、信長を朝廷の権威の中に取り込むためにも、信長に官位を受けてもらわねばならず、政権を樹立できる三職を選んだと思われる。従って三職推任は朝廷側からの提案とするのが妥当だろう。

 信長が三職推任に回答しておれば問題はなかったのだが、信長が正式に返答をする前に明智光秀による本能寺の変が起こり、信長自身が死去してしまった。

 信長がどのような朝廷の構想を持っていたのかは、永遠の謎となってしまった。

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(文学博士 二木謙一)