新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)に終わりが見えない中、さまざまな業界の人々が「アフターコロナ」(コロナ後)の世界についての議論をし始めています。

 世界各国の大都市圏を中心にロックダウン(外出・移動制限)という強行措置が取られ、人と人との間隔を空けて直接接触の機会を減らすソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)戦略が市民の義務となり、テレワークやオンライン飲み会が一気に主流に躍り出ました。これは目に見える分かりやすい変化です。

●コロナが暴いたこの社会の「社畜体質」

 この変化は、単に従来の産業構造やビジネスモデルが大きな転換を余儀なくされてきている、というだけではありません 。非常時にどの程度まで私権制限は許されるのかという安全と自由のバランスや、感染拡大を防止するための健康情報とプライバシーに関する認識も変容しつつあり、わたしたちにとってアフターコロナは別世界となり得る可能性が高いと言えます。

 現在盛んに行われている議論では、今回のコロナ禍は簡単に過ぎ去ってくれるものとは捉えてはおらず、今後もコロナ禍、あるいは別のパンデミックに繰り返し見舞われる可能性を勘定に入れています。このような立ち位置は「ウィズコロナ」(コロナとの共生)と呼ばれています 。つまり、従来の社会から「コロナ的なものを前提にした社会」に作り直すことが不可欠だというのです。

 特にわたしたちにとって身近なのは仕事です。企業にとっての「働かせ方」、ビジネスパーソンにとっての「働き方」の問題は避けては通れません。最大の障壁は、単に「テレワークがしづらい」といった時代錯誤的な職場よりもむしろ、生産性で推し量る「労働力としての人間」にしか関心がなく、病気になったり致死性のある病原体を撒(ま)き散らしたりすることもある「人間の生物としての側面」を軽視するカルチャーです。

 1つ分かりやすい例を挙げましょう。日本では2月に入って市中感染の恐れが指摘される感染事案が相次ぎました。その際、発熱しても出勤する会社員らの「社畜体質」と称されるものが、ソーシャルメディアを中心に話題になりました。

 まず、「風邪の療養のため有給休暇を取得して休んでしまう」社員よりも、「風邪薬を飲んで仕事を続ける」社員の方が評価される現状があります。ロイヤリティー(忠誠心)や根性論の文脈で語られる側面です。

●「生物としての人間」は度外視……

 しかしその深層には、もっと厄介な心性があります。「心身の異常をコントロールすることへの抗(あらが)い難い欲求」です。これは、心身のコンディションをできるだけフラットに保つことを規範とするもので、いわば現代社会の病理とでも評すべき「身体機能の平準化」志向なのです。

 免疫系を活性化させ、細菌やウイルスなどの病原体の増殖を抑制するために起こる発熱は、いわばわたしたち人間の「生物的な限界」を知らせるシグナルです。けれども、このような「生物的な限界」に屈してしまうことは企業レベルでは「経済的なロス」を意味し、個人レベルでは、「いつもの調子を狂わせるバグ」を意味します。

 両者に共通するのは「生物としての人間」を度外視し、「平準化された身体」をデフォルト(初期設定)とする社会システムへの盲目的な信奉です。驚くべきことに、そこには、病原体の宿主となる「有機的な身体」は想定されていません。企業も個人も、決して衰弱したり、死んだりしない「人工的な身体」が作動しているかのように、「生物としての現実」が「ない」かのように振る舞っていることがその証拠です。これは一種のファンタジーです。

 美術批評家のジョナサン・クレーリーは、「24時間・週7日フルタイム」で進行する「生物的な限界」を無視した社会構造を「睡眠」という観点から暴きました。「連続的な労働と消費のための24時間・週7日フルタイムの市場や地球規模のインフラストラクチャーは、すでにしばらく前から機能しているが、いまや人間主体は、いっそう徹底してそれらに適合するようにつくりかえられつつある」というのがクレーリーの現状認識です(『24/7:眠らない社会』岡田温司・石谷治寛訳、NTT出版)。

 先の風邪による発熱だけでなく、ストレス反応としてのうつなどの精神疾患も同じく、「24時間・週7日フルタイム」への「適合」を目指して「程よく調整」されなければならないというわけです。これこそが「生物的な限界」を真っ向から否定する社会システムの根底にある“グローバル化された無意識”なのです。

 それによって何が起こるかは明白です。新型コロナウイルスは、わたしたちが常時依存している「24時間・週7日フルタイム」の経済システムこそを自らの「生命線」とするのです。

 発熱をものともしない「働かせ方」「働き方」を推奨すればするほど、そのような「生物的な限界」を織り込まない社会を放置すればするほど、わたしたちは自らをウイルス爆弾に変えることになります。

●この社会の脆弱性を「利用」するコロナ

 しかも新型コロナウイルスは潜伏期間が長く、無症状の人も多いという極めてステルス性の高い特徴があります。「生物としての身体」を顧みないわたしたちの社会を、むしろ最大限に利用し尽くす狡猾(こうかつ)なウイルスなのです。あえて悪趣味な表現をすれば、全社員がクラスター(感染者集団)になってようやく終了する生体実験の被験者になるようなものです。

 では、「コロナ的なものを前提にした社会」における「働かせ方」「働き方」はどうあるべきなのでしょうか。少なくとも、コロナ以前の価値観は捨て去らなくてはなりません。

 表面的には、労使双方で健康確認の重要性が高まるとともに、体温などの健康情報の共有化が一層進むことでしょう。感染リスクを踏まえて「不調者を働かせない」就業環境が整備されていくことは容易に想像できます。

 入口に赤外線サーモグラフィーを設置し、体表温度をリアルタイムで計測することで、発熱者のスクリーニングを行い、扉の開閉と連動させるセキュリティゲートが一般化し、テレワークの実施により直接接触の機会を減らすだけでなく、本社をはじめとする事業所の分散化による企業内ソーシャル・ディスタンシングが日常風景になるかもしれません。

 とはいえ、これは本質ではありません。特定の病原体によるリスク化で「不安」や「恐怖」の感情とともに呼び起こされた、「生物的な身体」「生物としての現実」の次元に立ち戻らなければ同じ過ちを繰り返すだけでしょう。

 それは、クレーリーのいう「24時間・週7日フルタイム」で進行する「生物的な限界」を無視した社会構造の大転換です。わたしたちが利便性、快適性と引き換えに終始抑圧し、犠牲にしてきた「生物的な身体」「生物としての現実」と向き合い、世界観、生命観といった哲学的な価値の序列を問い直し、ライフスタイルの変革へとつなげることが必要になるのです。

●これまでの「贅沢だった世界」の崩壊

 いつでもどこにでも自由に移動できること、いつでも好きなものを食べられること、いつでも誰とでもコミュニケーションが図れること……etc。このような日々が今や奇跡のように感じられるのは至極当然です。かつて生きられていた世界が「眠らないことで成り立つ贅沢品」に過ぎなかったからです。

 開発や温暖化によって新興感染症が出現しやすくなることはよく知られている因果ですが、いずれにしても「生物的な限界」を認めようとしない経済システムは早晩、コロナ禍のような生物災害によって自滅に追い込まれるしかありません。

 わたしたちの仕事場や通勤電車をウイルス爆弾で木っ端微塵に吹き飛ばすのは、他でもないわたしたちの社会において最も強固な観念という名の信管なのです。

真鍋厚(まなべ あつし/評論家)