林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・日本アニメは別格扱い。だいぶ以前からヨーロッパに根付いていた。

・大島渚監督は、映画に起用するなら「素人を優先」したそうだ。

・俳優不在のアニメ映画は、声優の力量で作品のクオリティが決まる。

 

アニメ映画も、それなりの数を見てきた。

それなりの数、とは、なんともはや、奥歯に物が挟まったような言い方で、私自身あまり好きではない。ただ、そのように言わざるを得ない事情があるのだ。

昭和の小学生なので、映画が娯楽の王者であった時代を生きてきている。

西暦で言うと1960年代ということになるが、その当時、夏冬の休みになるとアニメ映画を何本も上映する「東映まんがまつり」というイベントがあった。『ジャングル大帝』とか、手塚治虫の作品が多かったように記憶している。

中学生になってからは、アニメ映画からは足が遠のいてしまって、1970年代後半以降のヒット作、具体的には『ルパン三世』『エヴァンゲリオン』『ガンダム』『名探偵コナン』などのシリーズは、TV放送すら見ていない。幾度か、定食屋のTVなどでたまたま見て、これがそうなのか、と思ったことがある程度だ。

例外は『クレヨンしんちゃん』で、これだけは幾度も見ている。

2010年と11年にスペインへ短期の語学留学をしたのだが、かの国では、土曜日の午前中、もっぱら日本製のアニメを放送しているのだ。『Shin chan』というタイトルで人気を博していたし、吹き替えだからみんなスペイン語でしゃべっているので勉強にもなるし……というのは、ほとんど後付けの理屈で、やはり面白かったのだ。

さかのぼること、およそ30年ということになるが、1984年に、初めてイタリアを訪れて、宿泊先のTVのスイッチを入れたところ、なんと『アタックNo1』の鮎原こずえちゃんがバレーボールを抱え、日本製アニメ特有の異様に大きな目に涙を浮かべて、イタリア語でなにごとかまくし立てていた。あの時の驚きと不思議な感動は、今でも忘れられない。あのヒロインの名前を正確に書けることで歳がバレるが笑。

要するに日本のアニメは、だいぶ以前からヨーロッパに根付いていた。現在のスペイン語など、comicとかanimadosという単語はちゃんとあるのだが、mangaとanimeはそのまま通じるというくらいなものだ。日本製は別格の扱いを受けているのである。

▲写真 スタジオジブリ作品フェスティバルのポスター(2014年9月5日 ドイツ・ベルリン)出典: flickr; Alper Çuğun

漫画も盛んに読まれているが、単行本の場合、困った問題がある。日本の漫画雑誌は、活字の本と同様、左開きになっているが、横文字一辺倒の国ではもっぱら右開きだ。吹き出し(漫画のセリフ)は、一コマごとなら縦書きを横書きにすれば済むが、これで右から左にコマが続いて行くと、おそろしく読みにくい。また、一般に左開きの本が存在しない国では、そういうものを作るとコストが高騰する。

そこで、窮余の一策として、絵を反転させて印刷するという挙に出た版元があったのだが、この結果、あのブラックジャックがサウスポーになってしまった。こういう、笑える話なのか否か、判断に苦しむ話も実際に聞いている。

漫画の話は、さておき。

1989年、当時私はロンドンで暮らしていたのだが、友人の勧めで『となりのトトロ』を見て、ジブリ作品にどっぷりはまってしまった。この映画の公開は1988年だが、バブル景気を背景に、日本人向けのレンタルビデオ店などができていて、新作でも、さほどのタイムラグもなく貸し出されるようになっていたのである。

ともあれ1990年代以降の私は、ジブリ大好き人間になった。とは言え、

「アニメ見て 泣く俺を見て 母が泣く」

……これは、たまたまネットで見たヲタク(これが正調の表記だとか笑)川柳のひとつだが、さすがにここまでではない。1993年に帰国してからは、新作が公開されるたびに映画館まで足を運び、DVDをほとんど全作買いそろえた程度だ。

日本製アニメ全般に共通することだが、丁寧な作画と言おうか、背景の細かいことろまで書き込まれていて、ストレスなく物語の世界に入って行けるところがよい。

描かれる世界観は、作品ごとに異なり、そこがまた魅力なのだが、中でも私が一番好きなのは『耳をすませば』(1995年)である。

読書好きな中学生の女の子が、図書館の本をいつも自分より先に借りて読んでいる男子がいることに気づく。その男の子はバイオリン職人になるという夢を持っていて……という甘酸っぱいストーリーだが、最初は彼のことを「やな奴」と言っていたはずが、いつしか仲良くなってしまうあたり、泣きはしなかったが、なにかがこみ上げてはきた。

一方で、最後まで違和感を払拭できなかったのが『風立ちぬ』(2013年)だ。

アニメそれ自体としては、なにがいけないということもなく、むしろ面白い作品に仕上がっていると言えるのだが、声優がよくなかった。

主人公・堀越二郎の声を、庵野秀明が担当したのだが、そもそも彼はアニメ制作者で、声優でも俳優でもない、いわば素人である。東大に入学すべく上京した主人公が、関東大震災に遭い、混乱の中、後に妻となる女性とめぐり合うのだが、

「(上野)広小路の方は火が回っていないようだから」

と避難誘導する台詞が、棒読みで緊張感ゼロ。結核患者が寝ている部屋でタバコを吸うバカがいるか、という悪名高いシーンと並んで、ジブリ映画史上の二大汚点ではないか、とさえ思った。

そこへ行くと、主人公の妹の声を担当した志田未来はさすがなもので、幼少期の声やしゃべり方と、成長して女医を志す学生時代のそれとを、きちんと使い分けていた。

▲写真 映画「風立ちぬ」のグッズ(2013年12月 東京・上野)出典: flickr; chinnian

ちなみに前述の『耳をすませば』では、ヒロイン・月島雫をベテラン声優の本名陽子、相手役の天沢聖司を後に俳優として大ブレイクする高橋一生が担当している。雲泥の差、とはまさにこのこと。嘘だと思うなら、見比べてみていただきたい。

亡き大島渚監督は、自分の映画に起用するなら、

「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に(舞台)役者」

と語ったことがあるそうだ。

▲写真 大島渚監督(2000年)出典:Rita Molnár

あれほどの監督が言う以上、そこにきちんとした論理の裏付けがあることは疑う余地がないし、実際に『戦場のメリークリスマス』(1983年)では、いずれも映画俳優としては素人のデヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしを起用した。この3人が、いずれも自分の演技を卑下したコメントを残しているあたりが、また面白いが。

その評価はさておき、大島監督の一連の作品と違って、俳優の演技を直接見ることがないアニメ映画の場合は、声優の力量で作品のクオリティが決まると言って過言ではないと、私は思う。

繰り返しになるが、アニメ映画としての『風立ちぬ』は、なかなかよい出来であった。ファンタジーとして、面白くもあった。それだけに素人による台本の棒読みで、ぶち壊しになってしまったことが、残念でならないのである。

トップ写真:トトロ(ジブリ美術館) 出典:flickr / Paul Miller