(乃至 政彦:歴史家)

「義の武将」あるいは「軍神」といわれ、抜群の人気を誇る戦国武将・上杉謙信。徒歩以外に交通手段のなかった時代、越後から関東へ何度も「越山」を繰り返した真の目的とは? 歴史家の乃至政彦氏が、一次史料と最新研究により謙信の実像と関東の戦国史に迫る。(JBpress)

狙われた房総の雄

 上杉謙信の父・長尾為景が越後国の統制を固めている頃、房総半島に関東屈指の群雄が独立した。「関東無双の大将」を謳われた安房国(あわのくに/千葉県南方)の大名・里見義堯(さとみよしたか/1507〜74)である。

 その祖先は、美濃国円興寺(えんぎょうじ)を領した美濃里見氏である(『尊卑分脈』)。足利幕府創成期の争乱で、西方から東遷した武士は多い。安房国に移り住んだ里見氏は十村城(後の稲村城)を拠点に領土を拡げた(『鎌倉大草子』[巻四・五]は「押領」していったと記す)。

 安房里見氏は、鎌倉公方奉公衆(ほうこうしゅう)の一員である。奉公衆とは、公方に直属する側近たちで、里見氏は代々に渡り、鎌倉公方・足利氏の近習として仕えてきた。

 だが、関八州のキングであるべき公方さまが分裂した。

 16世紀前期、古河公方・足利高基(あしかがたかもと/1485〜1535)の弟・義明が、永正15年(1518)に下総国小弓城へ移り、独立の構えを見せたのだ。骨肉に優れた義明は、その武勇に自惚れていた。

 ここに小弓公方・足利義明が誕生した。古河と小弓の公方が睨み合い、関東は二つに割れていく。里見一族は小弓公方についた。

 古河公方には管領の上杉氏がいたが、小弓公方には管領がいなかった。そこで里見義通(よしみち/義堯の伯父)が管領の美称「副帥(そくふつ)」を自称してこれを支える立場を表明した。公方だけでなく、管領も分裂したのだ。

 とはいえ、近習出身の里見氏は、管領たるにふさわしい所領を持っていなかった。そこで反古河派の領主たちを味方につけると、房総に「押領」を重ねて私領を拡げた。上総国の有力領主で野心家の真里谷(まりやつ/武田)信清が、力強い相棒となった。その侵略は「公方さまのご威名に背く不埒者め」という方便に支えられただろう。息子・里見義豊の代までに小弓公方の「外様大名」と呼ばれる実力を身につけた。

 だが、強引な領土拡大も行き詰まりを見せる。房総半島の面積が限られていることもあるが、そもそも後ろ盾の小弓公方が、古河公方に比べて伸び悩んでおり、実力差が開いていたのだ。父亡き後の義豊に、相模国の小田原城主・北条氏綱が目をつける。

 氏綱は古河派である。ほかの古河派からは「余所者」扱いされているが、実力は随一である。氏綱が彼らに認められるには、誰よりも伝統的権威を尊重しつつ、自らの実力を誇示する必要があった。そこで氏綱は、天文2年(1533)3月12日、鎌倉の鶴岡八幡宮の造営勧進を求めて、義豊のもとへ小別当・大庭良能(おおばよしただ)を派遣した。

 しかし、当時の記録によると、4月11日に鎌倉へ戻った小別当が、真里谷信隆(信清の息子)はじめ房総衆(義豊たち)が協力を拒否されたという。交渉はあっさりと決裂したのだ。

 このやり取りは安房妙本寺が仲介したと思われるが、妙本寺は、そこから稲村(とうむら)城へ向かう通り道近くの金谷城主の里見実堯と、同じく造海(つくろうみ)城主の真里谷信隆に使者を案内したはずである。

 だが、これは氏綱の罠だったらしい。

 この後の流れを見てみよう。交渉決裂から3か月ほど過ぎた7月27日の夜、義豊は叔父実堯および正木道綱を稲村城に呼び出すなり、その場で誅殺した。事態を聞いた義堯の遺児・義堯は、守りの手薄な金谷城を出て、防御力の高い真里谷信隆の造海城へと避難した。すると氏綱はこの時とばかりに、三男の為昌に軍令を発した。