(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

東北侵略のために作られた城柵

 大和政権から律令国家へと脱皮しつつあった日本の古代国家は、新羅・唐との戦争に備える一方で、東北地方にも支配を広げようとしました。当時の東北地方には、大和政権には従わない、別の文化をもった人々が住んでいたからです。彼ら先住民のことを、古代国家は蝦夷(えみし)と呼んで、支配下に組み入れようとしました。

 そこで、東日本から農民を集めて入植させながら、少しずつ律令による支配体制に組み入れようとしたのです。早い話、侵略です。この侵略の前線基地として築かれたのが、城柵(じょうさく)と呼ばれる施設でした。

 城柵は、山城とはちがって、平地やなだらかな丘の上に占地しています。内部の建物の作りや並び方も地方支配用の役所に似ているので、城柵官衙(かんが)と呼ばれることもあります。官衙とは、役所の意味です。

 でも、城柵は土塁(防禦用の土手)や高い塀に囲まれていて、櫓や櫓門を備えています。もっとも大事なポイントは、中にいたのが文官の役人ではなく、司令官に率いられた軍団だということです。

 つまり、先住民の土地に、まず軍団と入植者を送り込んで軍政をしき、先住民の抵抗がおさまった地域から通常の地方行政組織に組み入れて行く、という手順を踏んだのです。侵略のためのベースキャンプという意味では、東北の古代城柵は、まぎれもなく城でした。同じ時代でも、西日本の朝鮮式山城とまったく異なる形の城になっているのは、想定している戦いの規模も質も、前提としている戦略もちがっているからなのです。