新型コロナウイルスの影響で、多くのスポーツ競技が「中止」「延期」と通常開催できない状況だ。東京オリンピックも'21年に1年延期が決まったものの、練習すらままならず、不安の毎日を過ごす選手も少なくない。アスリートが紡ぐ試合から、感動と、生きるためのパワーをもらう私たちにとっても、“観戦できない、応援もできない”という状況が続く。

そこで今回、'98年長野オリンピック・女子モーグルでの金メダル獲得をはじめ、日本中を感動の渦に巻き込んできた里谷多英さん(44)に特別インタビューをお願いした。現在、里谷さんはフジテレビ社員として、「イベント事業センター・販売企画部・プロデューサー」を務めている。雪上で躍動する姿を覚えている世代はもちろん、「選手時代」の秘話、そしてワーキング・ウーマンとして活躍する「現在」までを語ってくれた里谷さん。私たちに、改めて“スポーツの魅力”を教えてくれた。

「25年間も競技を続けていると、もちろんいいことばかりではないんです。みんな『勝つ』ために頑張っているし、そのなかで『勝つ』=『トップで表彰台に上がる』って、気持ちいいこと。でも『頑張っても、できないことがあるんだ』というのを、現役時代の後半で学びました。それが、引退後のキャリアを過ごすための『糧』になっているんです」

サラリとしたロングヘアにピンと伸びた背筋、パンツスーツがよく似合う里谷多英さんが、こう切り出した。'76年6月12日、札幌市生まれ。ウィンタースポーツが盛んな土地で育ち、3歳からスキーに親しんだという彼女に、生い立ちから振り返ってもらった。

モーグルを競技として始めたのは、小学5年生、11歳のころ。しかし翌年に初出場した全日本選手権でいきなり優勝して、頭角を表した。

「モーグルがオリンピック正式種目となったのは、私が15歳のときのアルベールビル大会(92年)からでした。でもその前年に《'98年冬季オリンピック開催地が「長野」に決定!》という報を耳にしたときから《長野オリンピックに出る!》と決めていたんです」

そして、女子モーグル日本代表として、'94年のリレハンメルオリンピックに17歳で初出場。

「ノルディック複合団体で金メダルを獲得した荻原健司さん(50)たちや、スキージャンプ団体で銀メダルを獲得した原田雅彦さん(52)たちと同じ宿舎でしたので、先輩方の輝きがまぶしく見えましたね。『長野も一緒に出よう!』と声をかけていただきました。自分のなかではもう、《出る》ことは規定路線でした。そのときすでに《長野でベストを尽くしたい。後悔しない滑りをしたい》という気持ちで日々練習に臨んでいたんです」

それには、長野オリンピック開催前年の'97年7月に21歳の里谷さんを襲った「父の死」が大きく関係しているようだ。

「父は52歳の若さで、がんで旅立ってしまいました。亡くなった直後から《父にオリンピックを見せてあげたい》という気持ちが強くなったんです。親としてずっと見守ってきてくれて、私がオリンピックで活躍することを、誰よりも楽しみにしてくれていましたので、父の無念を晴らしたい気持ちが私にはありました。試合時間わずか『30秒間』というモーグル競技で、『終わって後悔したくない!』という一心でした。準備できること、やるべきことはすべてやったんです」

しかし、気持ちを整理したつもりでも、その都度、悲しさや、寂しさ……弱冠21歳の気持ちは、本番直前まで揺れ動いていたのだと、里谷さんは打ち明ける。

「試合前までは、《お父さん、どこかで見ていてくれるかな》と思い巡らせていた。そして試合当日は、《(近くに)いる気もするな。でも、目に見えないのが寂しいな……》とかね。いろんな思いが混じりつつ、行ったり来たり、していました……。試合当日は、レース20分前くらいになって気持ちが乱れて、泣いてしまったくらいでした。でも、スタート位置に立つときには、自然と真っさらな気持ちになれたんです。……滑り終わって『金メダル』の瞬間は、夢を見ているような感覚でした。父が取らせてくれた金メダルだったのかもしれません」

では、里谷さんにとって、21歳での金メダル獲得とは、何だったのだろうか?

「……『金メダル』はですね、周りの景色が一変したのは確かです。一変しているのに、なんか自分だけが変わっていなくて、それについて行っていなかったんですね。競技以外に割かれることで忙しくなりすぎて、取材への対応も含めて、おざなりにしてしまっていたかもしれない。それはよく、母がいさめてくれていたんですが、そのころの自分は気づきませんでしたね」

それは、弱冠21歳という年齢を考えれば無理もないことだったかもしれない。

「でもいまは、ビジネスとして取材のオファーや、マネジメントをする立場でもありますので、よくわかるようになりました」

長野オリンピック後、'02年のソルトレークオリンピックでも、銅メダルを獲得している。

里谷さんがオリンピックでメダル獲得をしたのは20代までで、30代に入ってからは、故障などもあり、苦戦が多くなった。

「ただ、年を取って、《無理なことがある》ことがわかってくると、逆に休む間もなく練習している自分がいたんですね。そのとき《辛いけれど楽しい。ここからまだ、私は成長できる!》と思ったんです。それが、10年のバンクーバーオリンピックを目ざしていたころです。《若い人に負けたくない、30過ぎてもできる。それを結果で示そう!》と」

肉体的なパフォーマンスが落ち始めたとき、選手はそれを、技術や経験則、そして培ったメンタル・タフネス(ストレスや環境に動じない精神的強さ)で補っていく。里谷さんもまさに、数々の大舞台の経験から、何事にも動じない強いメンタリティを獲得していたのだ。

「そうですね。若いころは、とにかく『頑張ればできる』と思っていたけれど、そのころには、『頑張ってもできないこともある』ことがわかった。体力ひとつ取ってもそうです。それをなにでカバーしていくか、あきらめるのか、まだ食らいつくのか、というのは、その時点で初めてできるチャレンジでした。それが私の、金メダル後のキャリアで獲得できたことです。『できないことがある』ことを現役時代に知ることができて、よかったと思うんです。選手成績は、往々にして最後は悪くなって終わるけれど、すごく辛いことがあっても、それも終わりがあるんです。そしていま、私はどうにか幸せに生きている。終わりがどんな形でも、その後の人生は続いていくんだということです」

(取材・文:鈴木利宗)