お艶(えん)という女性が非運を嘆き、身を投げたという由来がある前橋市の敷島公園のお艶が岩の池。お艶の正体は豊臣秀吉の側室、淀君と伝わる。この伝承の原型となる史実を群馬地域文化振興会常務理事の松田猛さん(63)が突きとめた。お艶は江戸初期の前橋にあった総社藩の初代藩主、秋元長朝(ながとも)の側室の於戌(おいぬ)殿と考えられる。前橋ゆかりの4大名家「前橋四公」の一つで、今も総社住民に慕われる秋元家に関する逸話がまた一つ加わった。◎於戌殿の供養で出世 手厚さと家紋から淀君伝説に? お艶が岩の池のほとりには石碑と「お艶観音像」が建立されている。石碑には秋元家菩提(ぼだい)寺の一つの元景寺(同市総社町)に伝わる話として、1615年の大坂夏の陣で自刃した淀君は実は長朝にかくまわれたと記されている。総社で暮らした淀君は自らの悲運に耐えきれず川に身を投げ、物語が語り継がれる中でお艶と名を変えたとしている。寺には淀君のものと伝わる墓もある。 一方、於戌殿の存在は秋元家の歴史を記した「秋元世譜」(館林市立図書館蔵)から判明。松田さんの祖先は旧秋元家臣で、昨年発見した松田家文書と旧主家を研究する中で見つけた。 於戌殿は京都出身で嫉妬深いため長朝に疎まれ、城の北方に幽閉された。長朝死後の30年に利根川の縁にあった大石に上り、「秋元家七代にたたりをなす」と言って身を投げた。 秋元家が33年に総社からの国替え後に良からぬことが起き、4代喬知(たかとも)が原因を調べると於戌殿の存在が分かった。そこで「心窓院」という法名を贈り、元景寺にあった於戌殿の墓所を新しくすると、喬知は出世街道を歩み、幕府の最高位の老中まで上り詰めた。 供養は代々受け継がれ、墓所に玉垣などを増設するたびに藩主は出世。松田家の祖先は秋元家菩提寺の年忌法事を調整する使命を与えられていたとみられ、於戌殿の供養を行ったとの記録も残っている。 歴代藩主が手厚く供養する上、墓所のある元景寺には豊臣家と同じ桐紋のお輿(こし)の扉が残されていたため、「住民がただ者ではないと想像を膨らませ、伝承が生まれたのでは」と松田さんは推し量る。総社住民は1776年に旧領主を慕った力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)を建てており、松田さんは「国替え140年後に建碑は通常はあり得ない。殿様の信心深さに感心したのが理由の一つではないか。秋元家と旧領地の研究を深めたい」と語った。 前橋学センター長の手島仁さん(60)は「史料に裏打ちされた整合性のある話。前橋は四公を生かしてPRしており、歴史に厚みが増した」と歓迎した。