ローランド・ラッツェンバーガーは、1994年にシムテックからF1デビューを果たした。33歳の時だった。当時としても、遅めのF1デビューだったと言えるだろう。

 開幕戦ブラジルGPでは予選落ちを喫したものの、第2戦パシフィックGPでは決勝に進出。これが彼にとって最初のF1レースとなった。

 しかし、F1にたどり着く道のりは長かったものの、ラッツェンバーガーは様々なカテゴリーを走り、好成績を残してきた。しかもこの前年までは日本を中心に活躍し、我々日本のファンにとっても馴染みの深いドライバーのひとりだった。

 その最初の大きな一歩とも言えるのが、1986年の10月26日だった。この日は、アデレイドで行なわれたF1オーストラリアGPでナイジェル・マンセル(当時ウイリアムズ・ホンダ)が派手なタイヤバーストを起こし、アラン・プロスト(当時マクラーレン・TAG)にタイトルを奪われた日である。

 ちょうどこの日、ラッツェンバーガーがイギリスのブランズハッチで行なわれたフォーミュラ・フォード・フェスティバルに出走。見事優勝を果たし、有望株としての名乗りを挙げた。

 その夜、ラッツェンバーガーがパドックにあるバーで祝杯をあげていた。その彼を最初に祝ったのが、前年のフォーミュラ・フォード・フェスティバルの勝者であるジョニー・ハーバートだった。

 この時ふたりは、将来のことについて話をしたという。ラッツェンバーガーはすでに、BMWとWTCC(世界ツーリングカー選手権)参戦について契約しており、アーバインもイギリスF3に参戦するため、エディ・ジョーダンと契約していた。しかしふたりは共に、さらに壮大な夢を持っていたという。

「この旅路が、僕らをどこに導いているのか……それについて話をしたんだ」

 ハーバートは当時のことをそう振り返る。

「彼は厳しい時期を過ごし、そしてフェスティバルで優勝した。私も1年前にフェスティバルに勝っていたけど、FF2000に挑んだ86年は厳しいモノだった」

「我々は、どうやったら物事がうまくいくのか、それについて話し合った。その後、障壁となることについても話したんだ。でもそれは、正しいメンタリティさえ持っていれば、乗り越えられるものだ。そしてF1についての話もした。そこへの足がかりが何かは分かっていたし、その道筋に乗っていることも分かっていた。僕らは互いに、途方もない話をしていたんだ」

 ハーバートは、そこからわずか2年半でF1にたどり着くことになった。しかし、ラッツェンバーガーにとっては、その道のりははるかに険しいモノだった。当時のラッツェンバーガーは既に26歳。しかし、見た目は若く見えたため、履歴書には2歳若く記載していたという。

 彼は親などからのサポートを受けることができず、メカニックとして働いたり、レーシングスクールの講師をしたりして、レースキャリアをスタートさせようとしていた。その間に、デビューする適齢期を過ぎていたのだ。1987年にBMWと交わした契約は、彼がプロのレーシングドライバーとして働く最初の機会となった。

 彼は笑顔が印象的で、魅力的な人物だった。それにより、イギリスでF3とF3000に挑むためのスポンサーを見つけることができた。フォーミュラカーでの選択肢がなくなれば、キャリアを続けるためにスポーツカーレースに移った。

 1989年には来日し、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にサードから参戦。すぐに頭角を現し、全日本F3000選手権にも挑戦した。

 日本で大成功を収めたラッツェンバーガー。しかし彼の目標は常にF1だった。1993年の終わりに、全日本F3000でのライバルであるエディ・アーバインとハインツ-ハラルド・フレンツェンにF1デビューのチャンスが開かれた時、ラッツェンバーガーは彼らを祝福しつつも、少し嫉妬していたという。

「彼はF1が好きだった」

 アーバインはそう回顧する。

「彼はそれに夢中だった。そして彼がどれほどF1に参戦するのを望んでいたのかは驚異的なモノだった。彼は日本で素晴らしいキャリアを過ごしたけど、F1への夢を追い求め続けていた。彼にとっては大変なことだっただろう。でも、そのことは彼にとって励みとなった」