朝鮮戦争(1950〜53年)で、米国を中心とする国連軍の海上輸送に通信技師として従事した京都府福知山市の男性(92)が、京都新聞社の取材に応じた。米軍からの命令のまま、戦争に協力することや行き先を知らされず、朝鮮半島に戦車や真水、日本へは負傷米兵などを運んだという。日本は占領下で、海上輸送に従事した日本人には米軍から厳しい箝口令(かんこうれい)が敷かれていた。男性は家族にも沈黙を貫いたが、「もう秘密は何もない」と証言を決意した。朝鮮戦争は25日で開戦70年を迎えた。

 証言した男性は、海軍通信学校在校時に終戦を迎え、政府が国内の全船舶を一元管理するため設立していた特殊法人「船舶運営会」に就職。米国が日本に貸与した戦車揚陸艦(LST)に海上通信士として乗り込み、中国大陸から日本人を帰還させる任務に就いた。

 男性によると、LSTは同乗していた米兵の指揮下にあった。朝鮮戦争が始まった1950年、日本人船長も乗員も事前に何も告げられず「(LST基地があった長崎県の)佐世保港の出口を出た所で船長が米兵から厳封の封書を受け取り、行き先が朝鮮半島だと初めて分かった」という。

 政府が国民を強制的に働かせる徴用は終戦に伴い終わっていたにもかかわらず、「乗員全員が徴用されたと受け止めていた」。行き先は釜山が多かった。航行時は戦場のような緊迫した状況にあり、男性は後にまとめた備忘録で「硝煙漂う港湾を南下したり、北進したり、暗夜を照らす曳光弾(えいこうだん)で息の根が止まりそうになったり、処(ところ)かまわぬ盲砲弾の炸裂音(さくれつおん)で肝っ玉は縮みどおし」と記した。

 積み荷はカバーで覆われていたが、釜山や元山に着いた際に隙間から戦車や食料、真水が見えた。日本への復路では負傷米兵や片翼を失った米軍機を福岡市の博多港に運んだ。

 男性は47年に通信技術を学ぶため国費で米国に派遣された経験があったことから、「行き先は米兵がその都度指示し、英語に堪能な私が船長への通訳を担うこともあった」と証言する。朝鮮戦争関連の輸送に関わった期間は約1年間。任務終了後、米兵から「一切口外するな。沖縄の刑務所に行くぞ」と厳命され、沈黙を守り通してきた。

 朝鮮戦争の海上輸送で荷揚げなどに携わった乗員の手記は明らかになっているが、船長側近の乗員の証言は珍しい。朝鮮戦争に詳しい防衛省防衛研究所の石丸安蔵研究員は「米軍に残る資料と矛盾せず、通訳した内容や、戦車などの積み荷に関する証言として貴重だ」と話す。