昨年の参院選をめぐり河井克行容疑者、河井案里容疑者によって引き起こされた大規模買収事件。事件は夫妻の地元、広島県を中心にさまざまな波紋を起こしているが、いま世間では安芸高田市・児玉浩市長の「丸刈り謝罪」が特に大きな話題として扱われている。

これまでの主張から一転して計60万円の金銭受領を認めた児玉市長は6月26日、頭を丸刈りにして謝罪と市長続投を表明する記者会見を開催した。髪型を変えることがこの問題の本質となんら関係ない陳腐な行為であることは明らかだが、今回深く考えたいのはなぜ「謝罪=丸刈り」なのかということだ。

丸刈り謝罪と言えば、2013年に「ルール違反」である男女交際をスクープされたAKB48・峯岸みなみさんが自ら丸刈りにして謝罪動画を公開した事件も大きな話題になった。女性ということもあり、ルール違反を反省していることはよく伝わったのだが、同時になんとも言えない気持ち悪さを感じた方も多かったはずだ。

日本人ほど丸刈りに意味を込めたがる国民はいないだろう。近世以前には男性が戦争や政争に敗れ野心を捨てたことを表明するために剃髪する例、女性が亡くなった夫に対し操を守るために剃髪する例が多数あった。戦時中には織田作之助「髪」に見られるように男性の丸刈り以外の長髪は精神のたるみの象徴とされ弾圧された。戦後に至っても中学、高校の男子生徒に丸刈りが「学生らしい」髪型として強制されたり、懲罰行為として用いられることが多々あった。

神戸市では1990年頃までほぼ全て中学校で丸刈りが強制されていたし、2000年代に筆者が通った大阪府の私立中学、高校でも些細な校則違反、宿題忘れへの懲罰として丸刈りが課せられることがあった。令和の時代になってさすがにそんな学校は無いだろうと信じたいが、なおも野球などの部活動では「自発的」と言いながらほとんど強制的に部員に丸刈りが課せられているようだ。2019年の「ハフポスト日本版」調べによるとアンケートに回答した49校中、なんと43校の野球部が「伝統」や「慣習」を理由に部員が自主的に丸刈りにすると回答しているという。驚くべきことだ。

日本において丸刈りは謝罪の手段として、また同時に体制による支配の手段として利用されてきたのだ。峯岸さんの丸刈り謝罪に気持ち悪さを感じるのは、その行為が本来一個人として自由であるはずの女性が、実はいまだに社会的に支配された存在であることを象徴するものだったから。また児玉市長の丸刈り謝罪に底知れぬアホらしさや怒りを感じるのは、その行為がなんら思想や深い考察をともなわず、無神経に反省のポーズとして用いられたからだ。

確かに丸刈りを強いること、心ならず丸刈りになることの視覚的、精神的インパクトは大きい。だからこそ古くから用いられてきたのだろうが、有色人種やLGBTへの差別が世界的な反発を呼び、個人の人権や個性が尊重される社会づくりが今後の課題とされる現代にそのような野蛮な行為に及ぶのは果たしていかがなものだろうか。

東洋的な思想を形作った孔子の教えにも「身体髪膚これを父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり」(「孝経」より)という言葉がある。手足から髪、肌にいたるまで身体は父母からいただいたものなので敢えて傷つけるようなことがあってはならないという意味だ。タトゥー文化等との兼ね合いを考えるといささか旧弊に感じるかもしれないが「身体に本意ではない傷をつけることへの戒め」ととらえれば今なお重みをもって受け止められるべき名言だろう。特に今話題になっている児玉市長には自分の丸刈り謝罪がいかに時代遅れの愚行の上塗りであったかご理解いただくための参考にしていただきたいと思うのだが。

(まいどなニュース特約・中将 タカノリ)