<長崎原爆>被爆の叫び鮮烈に 「乙女の会」機関紙見つかる

<長崎原爆>被爆の叫び鮮烈に 「乙女の会」機関紙見つかる

 戦後10年の1955年に結成され、長崎での被爆者運動の礎となった「長崎原爆乙女の会」が同年7月から56年2月まで発刊し、散逸していた機関紙「原爆だより」が見つかった。長崎総合科学大の木永勝也准教授が、会の創設メンバーの渡辺千恵子さん(93年に64歳で死去)の遺品にあった創刊号から5号まで全号を発見した。木永准教授は「平和運動の創成期が分かる貴重な資料だ」と話す。【加藤小夜】

 渡辺さんは女学生だった16歳の時、長崎の爆心地から約2・5キロにあった学徒動員先の工場で被爆。下半身不随となり、10年間寝たきりで過ごした。長崎原爆乙女の会は、53年から同名で活動していた女性らのグループに渡辺さんが加わって結成。56年には男性グループと合併して「長崎原爆青年乙女の会」になり、現在も活動を続ける被爆者団体「長崎原爆被災者協議会」の母体となった。

 「原爆だより」の創刊号は55年7月20日付で、ガリ版刷りのB5判8ページ。「発刊のことば」として「私たち被爆者は、社会の片隅で小さくなりながらも、その日その日の生きづらさに喘(あえ)ぎながらも、十年間と言う永い月日をケロイドと共にたたかってまいりました」とつづった。

 米国の水爆実験でマグロ漁船が「死の灰」を浴びた54年3月の第五福竜丸事件を機に、55年9月に原水爆禁止日本協議会が誕生するなど、当時、国内の平和運動は黎明(れいめい)期を迎えていた。創刊号にも実験を実施した米国への怒りや被ばくした船員への連帯を示す文章が散見され、事件が初期の平和運動に及ぼした影響の大きさがうかがえる。

 創刊号は、55年春にイギリスなどを訪れ、海外の集会で初めて被爆体験を語った広島、長崎の被爆者の話を聞いたイギリス人からの手紙も紹介。また、著名な社会学者で上智大名誉教授の鶴見和子さん(2006年に88歳で死去)と渡辺さんの往復書簡も掲載され、鶴見さんは「あたしたちは、あなたの苦しんでいらっしゃることを、もっともっと、よくしらなければいけない」と記している。

 遺品は渡辺さんの死後、遺族から、渡辺さんを支援してきた長崎総合科学大の元教員に譲渡され、16年に同大に寄贈された。その後、木永准教授が分析を続けてきた。

 原爆だよりは「原爆で子ども2人を失い、バラックで暮らす47歳の男性の一家」(55年9月10日付の第3号)など、困窮した被爆者の暮らしぶりを伝え、支援を呼びかけた。

 だが長崎原爆資料館や国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館にも所蔵されておらず、散逸したとみられていた。遺品には晩年まで核兵器の禁止や被爆者援護を訴えた渡辺さんの講演の原稿なども含まれ、木永准教授は「さらに分析して初期の長崎の被爆者運動について調べたい」と話している。

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