米軍機の機銃掃射後に残った薬莢(やっきょう)。「昭和二十年七月二十四日」と刻まれた日付は第二次世界大戦末期、豊後水道上空で米軍機と交戦した旧海軍戦闘機「紫電改」が愛南町沖に墜落した日でもあった。24時間態勢の空襲監視を続けた「八幡浜防空監視哨」(愛媛県八幡浜市)の資料が物語る戦争の記録と記憶を、県埋蔵文化財センター元係長、多田仁(じん)さん(53)=3月末で退職、愛南町=がセンターの最新版研究紀要で伝えている。【松倉展人】

 栗野浦、舌間両地区の境、標高約178メートルの山頂にあった八幡浜防空監視哨跡を多田さんが訪ねたのは2019年4月。建物の基礎の一部、水槽のような遺構の他、内径約3メートルの円筒状の壕(ごう)に入って爆音の種類や機数を人間の耳で聞き分ける「聴音壕」跡を確認できた。隊員が飲食に使った陶磁器やガラス瓶のかけらも多数残されていた。

 更に同市の地域紙「南海日日新聞」(休刊中)で編集発行人として活躍した近藤誠さん(故人)が1987年当時に特集した8編の記事を手がかりに、隊員の親族らにも面会できた。貴重な資料として、44(昭和19)年ごろに聴音壕前で撮影したと思われる写真、隊員の勤務札、名札(いずれも木製)、襟章、松山防空監視隊本部が作成した「敵機来襲航路図」、隊員が研修を受けた際の「公務旅行証明書」なども確認できた。

 この中で、隊員が回収していた薬莢は長さ約10センチ。底面の刻印から、米軍が使った普通弾または徹甲(てっこう)弾と見られるという。くぎのような金属で「昭和二十年七月二十四日午後二時十分八幡浜防空監視哨ヲ銃撃ス本品」「四機 銃掃射」とあり、この時間に監視哨に詰めた隊員6人の実名も刻んでいる。

 45(昭和20)年7月24日は軍港があった広島・呉を主な攻撃目標とした米艦載機と日本の旧海軍機が豊後水道上空で交戦した日。その際に墜落し、愛南町・久良湾の海底にほぼ原形のまま沈んでいた紫電改は78年に発見されて翌年引き揚げられ、現在は同町で展示されている。多田さんは「当時の戦況は極めて厳しかった。各地の監視哨での証言や痕跡を見ても、監視哨自体が攻撃目標となっていたことも想定できる」と話す。

 伊予史談会常任委員でもある多田さんは2016年以来、県内各地の防空監視隊や監視哨跡を調査。宇和島署内にあった宇和島防空監視隊本部に隊員として勤務した複数の女性からも証言を得ている。佐田岬半島にあった「三机(みつくえ)防空監視哨」(伊方町三机)跡を18年、地元グループ「佐田岬みつけ隊」事務局の高嶋賢二さん(47)と合同調査した際は、戦局の悪化で日本が開催を返上した1940(昭和15)年の「幻の東京五輪」を記念したと思われる茶わんを遺構の中から発見している。

 ◇防空監視哨

 日中戦争が始まった1937(昭和12)年の防空法で制定された監視施設。警察の管理下にあった。「愛媛県警察史」(県警本部刊)によると、39年7月には松山、八幡浜、宇和島に防空監視隊本部があり、県内25カ所に監視哨が置かれた。当時の隊員数は1169人。同書には「レーダーもなく双眼鏡が唯一の装備」とあり、その双眼鏡も41年7月の時点で「25カ所のうち9カ所に備えられていたに過ぎなかった」と記されている。