「頂く」ばかりでは嫌われる

 2023年8月、SNSを使って男性3人から計1億5000万円をだまし取ったとして女が逮捕された。いわゆる「頂き女子りりちゃん」である。

 事件の詳細については多くの報道がなされているので他媒体に譲るとして、これだけ注目されるのは、

「頂くだけで、差し上げることがない」

ということに対して、多くの人が反感を抱いたからではないだろうか(「頂く」の反対語は「差し上げる」である)。

 昔から、

・ギブアンドテイク
・情けは人のためならず
・ペイフォワード(恩送り)

とか、もらってばかりではなく、与えることによって利益を得るという主張は少なくないし、それに共感する人も多い。

 1961年のジョン・F・ケネディ米大統領の演説でも

「国が何をしてくれるかではなく、自分が国に何ができるかを考えなさい(Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.)」

という言葉に人々は拍手喝采であった。

健全な会社員のイメージ(画像:写真AC)

組織は「頂き」社員でどんどん痩せ細る

 実際、組織において、欲しがってばかりの「頂き」社員ばかりであればどうなるか――。

 組織から何か奪い取ってやろうとばかり考え、組織に何か与えて貢献しようとはあまり考えない人ばかりになれば、子どもにすねをかじられてばかりの親のように、組織はどんどん痩せ細っていくことだろう。

 もちろん今の「成果主義」時代において、組織に何の貢献もせずに「頂く」ことなど不可能である。しかし、各社員がそれぞれ与えられた目標や役割のみを果たして、約束された報酬を「頂く」だけでは、組織は大きく成長しない。それは、組織には、皆が共同で利用し、対価を支払わない人を排除できない資産である

「公共財」

があるからだ。

悩む中年会社員のイメージ(画像:写真AC)

組織には「公共財」がある

 組織における公共財とは例えば

「知識共有システム」(ナレッジマネジメントシステム)

などである。

 社内の共有サーバーにさまざまなノウハウを個々人が共有するようなシステムを持つ企業は多いが、それは個々の社員が全体に貢献しようという気持ちがなければ成り立たない。

 自分の持つノウハウを全体に公開せずとも罰せられることなどはない。それなのに、社内のライバルもいるなか、ノウハウを会社の公共財として「差し上げる」人がいるからこのシステムは成立する。

 誰かのノウハウを「頂こう」とする人ばかりの組織であれば、いつまでたっても知識共有システムは充実せず、効果を発揮することはないだろう。

健全な会社員のイメージ(画像:写真AC)

「組織文化」も公共財のひとつ

 ほかにも「よい組織文化」なども公共財といえる。

 社員同士が相互に理解し合い、仲よく、助け合い、育て合い、切磋琢磨(せっさたくま)しながら健全に競争するような文化は、組織のメンバーにとってはかけがえのない共通の資産だ。

 そういう文化の組織に入れば、日々暮らすだけで、誰かに助けてもらったり、教えてもらったりして、その恩恵を受けることはできる。しかも、自分も人を助けたり、教えたりしなくてもよく、文化に

「ただ乗り(フリーライド)」

できてしまう。しかし、このフリーライダーが一定以上増えていけば、徐々にそのよい文化は消えていってしまう。誰かが「差し上げ」なければこれも永続しない。

健全な会社員のイメージ(画像:写真AC)

聖人君子でもない人がなぜ「差し上げる」のか

 このような「公共財」が強い組織は、社員個々人の力の総和以上に効力を発揮して、好業績を上げることができる。それで、経営者たちは、自社の公共財の強化を図ろうとしている。

 上述のようにこれらは多くの「差し上げ」社員がいることによって実現されている。このことがわかっているからこそ、「頂くだけ」の人には嫌悪感を持ち、「差し上げる」ことをいとわない人には好感を持つような文化が人の世にはあるのかもしれない。

 しかし、自分の役割がいで直接的な報酬のない「差し上げる」という行為(組織論の世界では「組織市民行動」と呼ばれる)は、聖人君子(知識や徳の優れた、高潔で理想的な人物)などいない現世において、どのようにしてなされるのであろうか。

エリク・H・エリクソン『アイデンティティ: 青年と危機』(画像:新曜社)

中年期の発達課題「ジェネレイティビティ」

 ひとつの示唆的な考えとして、「アイデンティティー」の概念で有名な心理学者のエリク・H・エリクソンが唱えた概念

「ジェネレイティビティ」

というものがある。これは「世代性(生殖性とも)」、つまり

「次世代の価値を生み出す行為に積極的に関わっていく」

ことを意味する言葉で、generation(世代)やgenerate(生む)から作られた造語である。

 エリクソンによればこれはおおよそ35歳以上の中年期の大人が乗り越えていくべき課題とされている。なぜかといえば、中年期を越えると人は

「自分の人生に終わりがある」

ことを徐々に実感するからだ。これを越えるために、中年期以降の人はジェネレイティビティを獲得しなければならない。

「差し上げる」イメージ(画像:写真AC)

「差し上げる」ことに喜びを感じるようにならねばならない

 もしジェネレイティビティを持つことがなく、

「自分だけよければいい」

という利己的な考えしか持てなければ、いつか滅びる者として待っているものは絶望感しかない。自分が消えれば全ては終わる。こんなにむなしいことはない。

 しかし、もしジェネレイティビティの感覚を獲得して、自分はたとえ衰えても、若い人をはじめとした同僚たちの活躍や幸福をわがごとのように喜びを感じられれば、いつまでも意欲を失わずにいれる。

 つまり、聖人君子のように「利他の気持ち、自己犠牲の精神で差し上げよ」ということではなく、

「差し上げることが自然とうれしくなる」

ように、組織の仲間に対して愛着やコミットメントを持ってはどうかということなのだ。

 われわれ(筆者は1971年生まれ)中年世代は、意識するしないにかかわらず、これまで既にいろいろ「頂いて」きたであろうから、組織や周囲のためにも、そして「自分のため」にも、そろそろ

「差し上げる」

ことに喜びを感じるようにならなければならないのではないだろうか。